春キャベツが美味しい季節だ。
今季何玉めの春キャベツになるのか分からないけれど、その日もザクザクと千切りに。
軽く塩コショウをしてスプラウトとノンオイルのシーチキンを混ぜ合わせたものを、厚切りパンにたっぷりと挟んだ春キャベサンドがたまらない。
一応、栄養のバランスを考えてスプラウトやシーチキンを混ぜ込みはしたけれど、もっとシンプルに春キャベツだけのものが今の気分にマッチしているようにも思う。
温かいハチミツレモンも用意して、風もなく心地よい天気だったその日は、ガーデンテーブルで味わうことにした。
食事を終えてハチミツレモンを飲んでいると、不注意で割ってしまったバケツが目に留まった。
そろそろ、おしゃかになってしまったバケツを処分しなくては。
そう思った自分に「“おしゃか”って言葉、久しぶり」と思った。
学生の頃、使い物にならない状態になったものが、立派なお釈迦様に変身するという想像ついでに、この言葉を調べたことがあった。
あのお釈迦様と同じ「お釈迦」と書き記すのだと知り、へぇーと思った。
それから何年も経った後、この言葉が職人から生まれたという説があるのだと知った。
今回は、そのようなお話を少しと思っております。
ご興味ありましたら、ちらりとのぞいていって下さいませ。
使いものにならない状態になってしまうことや、失敗などに対して使われる「お釈迦になる」という言葉があるけれど、これは鋳物職人の失敗から生まれた言葉だと言う説があるそうだ。
阿弥陀仏像を作って欲しいという注文を受けた鋳物職人が、うっかり注文内容を間違えてお釈迦様を作ってしまったことから、
職人たちの間で、使いものにならないものや、失敗してしまったことを「お釈迦になる」と言いはじめたことがきっかけだという説や、
阿弥陀仏像を作っていたのだけれど、お釈迦様のようなものに仕上がったことから、失敗や失敗作を「お釈迦になる、お釈迦になった」などと言うようになったといった説があるのだとか。
失敗や使いものにならない状態になったものとお釈迦様を結び付けている辺りから、もともとは職人たちの間のみで使われていた、隠語のようなものなのだろうけれど、
人が、昔も今も変わらず秘密めいたものに惹かれたり、使ってみたくなったりするのは、人の性のようだ。
今は「お釈迦になる」という表現そのものに秘密めいた雰囲気など無いことも、この表現が使われる機会が減った原因なのでは?と思うと、
人の心を魅了するには、ほんの少しのミステリアスさは不可欠なのかもしれない。
そのようなことを思いつつ、春キャベツの美味しい余韻に浸る午後である。
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