自分が被害者側に立った場合の想像は、割と簡単にできるけれど、自分が加害者側に立った場合の想像は、簡単にとはいかないように思う。
先日、外国暮らしから帰国した友人と久しぶりに時差を気にせずに話をした。
その話題の中に、アジア人差別に関する話題もあった。
全ての出会いが素敵なものだったと言いたいところだけれど、私もそのような差別を受けたことがある。
数日後には自国を去るアジア人観光客なのか、自国に住んでいるアジア人なのかという違いでも相手の対応が変わるのだと知ってからは、敢えて観光客のフリをしてその場をやり過ごしたことも何度もあった。
それでも、私が想像していたよりも差別を受けることが少なかったと思えているのは、出会った方々の多くが、自分とは異なる文化や感性、常識を持った私を知ろうとしてくれたからだろうと思っている。
そして、その違いを知って相容れない部分もあっただろうけれど、その部分を否定するでも強要するでもなく、ただただ「あなたの国ではそうなのね」と寛大でいてくれたからだろうと思っている。
このような経験をしたり想像する機会があると、自分が加害者側、差別する側に立つことは無いように思っていることがあるけれど、
無意識に自分が加害者側に立ってしまっていることもあるのだと感じたのも、外国暮らしをしているときだった。
自分が相手のお国柄や言葉、常識、宗教感、その他の様々なことを全く知らないとき、過度な警戒心が働き、出来るだけ関わらないようにしていることに気付き、ハッとしたのだ。
もしかしたら相手は、自国の言葉が通じず道に迷っていて、勇気を振り絞って道を尋ねていただけかもしれないのだけれど、私は「怖い」と感じて避けてしまったことがある。
私自身が、知らない土地で自分の身を守ることを最優先にしていたこともあるのだけれど、それは知らない土地に足を踏み入れた側、踏み入れられた側も同じ。
無防備でいいとは全く思わないけれど、知ろうとしないことは、見える世界や感じられるモノゴトを随分と限定してしまったり、知らぬ間に自分を加害者側に立たせてしまうこともあるのだと思う。
こうして、折に触れて色々な視点からモノゴトを想像してみると、
旅先で思わぬ差別を受けてしまっても、
嫌な気分一辺倒になってしまわずに、相手の心内を少し離れたところから眺めて程よく水に流すことができるのかもしれない。
自分が被害者側に立った場合の想像は、割と簡単にできるけれど、自分が加害者側に立った場合の想像は、簡単にとはいかないものだなと改めて感じた日。
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