気温が下がってきているからだろう。
煮込み料理を作る機会が増えてきたように思う。
キッチン内にパソコンと本を持ち込んで、好きな飲み物と音楽を用意する。
そして、お鍋の中でグツグツと音を立てながら小刻みに揺れている食材の様子を時折、耳で確認しながら過ごす時間は、私にとって至福の時のひとつである。
ひとつひとつをじっくりと堪能する時間も密度が濃くて良いものだけれど、こうして好きなあれやこれやだけに囲まれて、全部を同時にざっくりと楽しむ贅沢感は、ココロが解放されるように思う。
お鍋の中をぐるぐると掻き混ぜながら、注文日の翌日に到着するという連絡をいただいてから一週間が経過した書籍類が、未だに届いていないことに気が付き、問い合わせをしてみることにした。
すると、「お調べ致します」という言葉から15秒ほどで紛失した疑いが高い為、交換品ということで全て再送してくださるという流れに至った。
とてもスムースな対応に感謝したのも束の間、窓口の方から「万が一、紛失したはずの書籍が届いた場合は返送する必要はないので、全てお客様の方で破棄してください」と付け加えられた。
窓口の方が電話越しの私(=お客様)に商品を確実に届けることを最優先事項として動いて下さったことは直ぐに分かったけれど、
一冊の本が仕上がるまでに要する時間や携わる人の数を思うと、簡単に「それら全てを破棄」と言われたことに胸の中がモヤモヤとして、しばらくの間、無駄にお鍋の中を掻き混ぜていたように思う。
翌日、再送してくださった書籍が全て無事に私の手元に届いた。
そして、その日から送れること4日ほど。
紛失したはずの全ての書籍が巡り巡って私のもとに届けられた。
とてもマニアックな資料とも言える書籍類だったこともあり、譲ってほしい友人、知人も見つからないだろう。
ふと、このような状況で破棄される書籍は年間どれほどの数あるのだろうかと思った。
もう少し待ってみるという選択肢もあったはずなのだけれど、注文した翌日に届く便利さが当たり前になっていた私は、一週間「も」待ったと感じ、再送を快諾していた。
食品ロスに対しても似たようなことを感じるのだけれど、簡単に手に入る幸せは、何かを知らぬ間に引き換えにしているように思う。
例えば食品。
初めは、美味しいものを届けたいと思って作っていたけれど、多くの人に届けたい→切らしてしまってはいけない→だから大量に作る→ロスが出ても仕方がない。という状況になり、
次は、原点に返るのではなく、そのロスを減らすにはどうすればよいのかと考えることになるなんて、冷静に眺めるとおかしな話である。
今回私も、紛失したかもしれない本たちをあっさりと見捨てて、替わりを送ってもらったのだから、偉そうなことを言える立場ではないのだけれど、
人でも物でも気持ちでも、人は、そのような何かを意識している、していないに関わらず「自分が思うままに扱うことができるもの」として「見たり」「扱ったり」してしまうとき、
一見、自分がその何かを支配しているように見えて、実はその何かに支配されてしまっているのではないだろうか。
既に手にしている本が丸ごと収められた、もうひとつのダンボール箱を眺めながら、そのようなことを思った。
いつかそれらを手放すその日まで、私の書棚には同じ本が2冊ずつ並ぶことになったのだけれど、その列を目にする度に、同じ中身のダンボールが並んだその日の出来事を薄っすらと思い出すように思う。
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