先日、知人から新聞記事を撮影したものが送られてきた。
それは、小学生が書いた「小学生のくろう」というタイトルの文章だった。
画像に写っていたのは文章の一部だったけれど、その中には素直な気持ちが丁寧に綴られており、日々を重ねる中で様々なことを考えていることが伝わってくるものだった。
そしてそこには、小学生ならではの、今の自分ではどうしてもクリアにすることができない不自由が綴られており、早く中学生になりたいとあった。
しかし、その子なりに、周りの中学生を観察してみたのか、話を聞くかしてみたのだろう。
自分が早くなりたいと思っている中学生もいろいろと大変みたいだと書き添えられていた。
ある意味、不自由は何かに守られている証であり、ある意味、自由は自分に対しての責任を自分で負うということでもある。
見方、感じ方によっては、どちらも一長一短ではあるけれど、だからこそ、今しかできないことや今しか感じられないことがたくさんあるように思う。
それは子どもに限ったことではなく、大人になった私たちも同じである。
昨年と同じようにはいかないことも出てくるし、自分の気持ちが昨年と同じだとも限らない。
身近なことを挙げるならば、女性は、確かな理由はないのだけれど、昨年のお洋服が何となくしっくりこないだとか、これまでのメイクがしっくりこないとった漠然とした感覚を覚えることがある。
小さなことのようにも見えるけれど、本人にとって、これまで好きだったものや自分に合うと思っていたものが、そうではなくなる状態というのは、ストレスや自信を無くすことに繋がる場合もある。
そのようなことからも、今しか楽しめないモノゴトは子どもだけにあるのでなく、大人にもあるということであり、結局のところ、いくつになっても、その年齢や時代ならではの自由と不自由さの両方を持って過ごしているということなのだろうと思う。
これをマイナスのことだと捉えるか、プラスに変えられることだと捉えるか。
この文章を書いた子のような葛藤も含めて、それらを一つずつ大事に感じていくことができたなら、自由と不自由さの間を行ったり来たりしながら過ごす日々にも奥行きや幅が生まれ、日々を豊かに重ねていくことができるように思う。
素直な気持ちを素直な言葉で綴っている素敵な文章に触れて、可愛いなと思ったり、気持ちがポワンと温かくなったり、子どもだって大変だよねと賛同してみたり、あれやこれやと思考を巡らせた、ある冬の日である。
関連記事:
画像をお借りしています:https://jp.pinterest.com/