自宅近くに、まだ一度も入店したことがない天然酵母パンを専門に扱うパン屋がある。
お店の前を通ると香ばしいパンの香りに誘われて、ふらりと中をのぞいてみたくなるのだけれど、タイミングが合わず、そのうちにと思いながら数カ月が経っている。
シンプルでスタイリッシュな印象の店構えだけれど、どことなく温かみを感じる雰囲気もあり、店内にはいつもお客さんの姿がある。
店の外には壁に沿うようにして木製のベンチのようなものが置いてあり、その上には、寄せ植えの鉢が3つ並べられている。
2カ月ほど前にパン屋の前を通った時には、真冬の寒空の中、パンジーの黄色がひと際鮮やかで目をひいたけれど、今回は紫色をしたスミレが鉢の中で満開になっており、店主の好みを垣間見たような気がした。
スミレ。
花屋や園芸ショップなどで鉢植えのものを購入することもできるのだろうけれど、私のイメージは、わざわざ購入する類の花ではなく、“道端で偶然に出会いたい花”である。
スミレは花が終わると、種が詰まった房のようなものをパチンッと弾けさせたときの勢いで種を飛ばして繁殖の場を広げていくという。
ただ、これだけでは種の移動距離は知れており種族を繁栄させられないため、スミレは秘策を使っているのだ。
その秘策というのは、弾け飛ばした種をアリに遠くまで運んでもらうというもの。
しかし、ただでさえ自分たちのことに忙しくしているアリが、無償でこの仕事を引き受けてくれるとは考え難く、だったらスミレは、どのようにしてアリと契約を結んでいるのかと思ってしまう。
スミレの種の先には白い塊がくっついている。
お米で例えるならば米粒の先についている胚芽で、ピーナッツで例えるならばピーナッツの粒を半分に割ったときの片側についている小さな芽の部分のようなものなのだけれど、
この白い塊部分は、旨味成分と数種類の甘味でできており、アリが好む味をしているという。
そして、この白い塊は、種から簡単に取り外すことができないように作られているため、アリたちはスミレの種を一度、巣へ持ち帰って白い塊を食べるという。
白い塊を食べ終えたら種の部分はアリにとって不要になるため、アリは種を再び巣の外へと捨てに行くのだとか。
アリの中には、巣へ運ぶ途中に挫折してスミレの種を道中に放置する者もいれば、障害物にひっかかるなどして運べなくなる者もいる。
白い塊が、運んでいる途中に偶然にもポロリと取れ、種の部分はその場に放置して美味しい部分だけを持ち帰者もいる。
アリの行動には様々なケースがあるけれど、いずれにしてもスミレの種は、アリの力を借りて自分ではたどり着けないような場所で、花を咲かせることができているそうだ。
アスファルトのひび割れ部分や生け垣の妙な部分から、紫色のスミレが1輪だけ咲いているというような風景を目にすることがあるけれど、あれは、スミレとアリによる言葉なき契約による場合があるようだ。
学生の頃、遊びに行った友人宅にスミレの鉢植えが置いてあった。
気まぐれで種を蒔いてみたら、可愛い花が咲いたという。
しかし、スミレを持ち込んでから、時々アリが出るようになったと言っていたのだ。
当時の私たちはスミレとアリの言葉なき契約のことなど知らなかったものだから、土の中にアリが居たのではないだろうかと話したように思う。
あれから随分と年月が経った頃に、スミレの種の話を知り、友人宅に時々出るようになったアリは、スミレの種についている甘い塊を嗅ぎつけて来ていたのかもしれないと思った。
わざわざ伝えるようなことでもないと思い、伝えぬまま時が過ぎたけれど、あの出来事は今頃の季節だったのかと思った。
巡り来る季節は様々な記憶を呼び覚ます。
パン屋の前を通り過ぎながら、そのようなことを思った日。
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