この時季の満月を見上げると、「田毎の月(たごとのつき)」という言葉が思い浮かぶ。
田植え前の水が張られた田んぼ毎に、月が映り込む様子表した風流な言葉である。
この言葉が指す風景は、長野県にある姨捨山(おばすてやま)の麓で見ることができるという。
麓に並ぶ田んぼは、全て異なる形をしたサイズ違いの小さな田んぼで、昼夜を問わず美しい風景であることから日本の重要文化的景観のひとつに選ばれている。
私は写真家の方々が撮った作品を通して目にしている風景なのだけれど、行ったこともないというのに既に行った気になってしまったくらい、多くの方が魅了されてシャッターを切っている場所である。
この姨捨山(おばすてやま)の風景は、昨今注目されはじめたものではなく、万葉集に収められている和歌にも登場することから、この場所は、古くは平安時代からお月見のおすすめスポットとして人気があったようだ。
そして、時を重ねる中で小さな田んぼが一つ、また一つと増え広がり、多くの先人たちが田植え前の水が張られた田んぼに映る月に魅了されることとなるのだ。
芸術家たちの手によって和歌や俳句、浮世絵などの中にも描かれてきた風景なのだけれど、「田毎の月(たごとのつき)」という言葉に違和感を覚える方もいらっしゃるのではないだろうか。
田毎と言うならば、その水を張った田んぼの一つ、一つに、月が映り込んでいるように思うけれど、実際に月が映り込む水田は一つだけのはずである。
しかし、月は時間の経過とともに水田を移動するかのように映り込む水田を変えていくので、この移り変わりを「田毎(たごと)」と表現しているようにも思う。
一般的な解釈は、水田に映り込む月を見ている者が歩きながら眺めているため、移り込む月の見え方が変わり、全ての水田に月が映り込んでいるような気になることを表現しているというものなのだけれど、足を止めてじっくりと月を眺める日、歩きながら月を眺める日と様々な視点で楽しんでいたのではないだろうかと勝手に想像したりする。
既にこの世を去った、1000年以上も前の時代を生きていた人と直接会うことは叶わないけれど、言葉や作品を通して、変わらぬ月や田んぼの風景を通して、彼らと繋がることができるように思う。
遠方に住んでいると、姨捨山(おばすてやま)へ足を運ぶ機会は、簡単には得られないけれど、毎年、多くの方が撮った「田毎の月(たごとのつき)」をネット上で目にすることができます。
今宵は満月の夜でもありますので、ご自宅からお月様を眺めつつ「田毎の月(たごとのつき)」を想像してみてはいかがでしょうか。
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