幸せのレシピ集

cawaiiとみんなでつくる幸せのレシピ集。皆様の毎日に幸せや歓びや感動が溢れますように。

消えた一の腕の行方を追って。

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知人とくだらないメッセージのやり取りをしながら、米粉のパンケーキを焼いていたときのことである。

「これもくだらない話だけど、第一関節って指先から一番目の関節のことなのか、指の根元から数えて一番目の関節なのか、ふと迷うことがある。」とあった。

パンケーキの表面に浮かび上がる気泡を確認しながら「あー、私もある」と思った。

この手の、間違う理由が見当たらないようなものごとに限って、少し真剣に向き合った途端、妙な迷いを抱かせる迷宮の扉が開くのである。

更に私は、「二の腕などと呼ぶ、お肉が付きやすい部位があるけれど、それならば一の腕と呼ばれる部位は何処へ」と感じていたことも思い出し、焼きあがったパンケーキをお皿に移した後、そう返した。

知人とのやり取りは直ぐに終了したのだけれど、「一の腕の行方」が気になり調べてみることにした。

結論から言えば、これが正解と言い切ることができるほど、明確な回答には辿り着くことができていないのだけれど、多くの人の目に留まるであろう一説には、「その昔は一の腕と呼ばれる部位もあった」とある。

今回は、そのようなお話を少し。

要点だけサクッと摘まみ食いをするような気分で、お付き合いいただけましたら幸いです。

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私たちにとっての「二の腕」とは、肩から肘までの部位を指し、現在、「一の腕」と呼ばれる部位は存在しない。

しかし、古くは、肩から肘までの部位を「一の腕」、肘から手首までの部位を「二の腕」と呼んでいたことがあったのだとか。

そして、時代を経る中で「一の腕」と呼ばれていた肩から肘までの部位が、「二の腕」と誤った呼ばれ方をされたまま定着し、現在に至っているという説がある。

ただ、日本語をポルトガル語に訳した古い辞書の中でのみ、肩から肘までの部位を「二の腕」と表記しているそうで、人々が誤って呼ぶようになったというよりは、この辞書の翻訳が誤りだったのではないか、という考えが有力のようだ。

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ただ、誤用云々の前に、指の関節もそうだけれど、先端から数えることが自然な流れになっていること思うと、手首から肘までの部位を「一の腕」と呼び、肘から肩までの部位を「二の腕」と呼んでいた。

これが時代を経る中で「一の腕」を呼ぶ機会が減り、「二の腕」だけが残っているという見方が自然であるようにも思う。

そもそも「腕」という表現だけでも十分だと思うのだけれど、何故に「二の腕」という呼び方だけが、これほどまでに存在感を放っているのだろうか。

もしかして、女性が気にする二の腕問題は古からもあり、これが少なからず影響を与えているのではないだろうかと、思ったりもして。

そして、辞書に記されていることは正しいものだと思い込んでいるけれど、生きていれば「辞書にだって時には、ね。」ということもあるのである。

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ふと、「一の腕」という呼び方が復活する日はくるだろうかと思ったけれど、多分、来ないだろう。

だって、「ニノウデ」と違い「イチノウデ」という発音は何となく呼び難いんだもの。

パンケーキを口に運びながら、消えた一の腕の行方を追っていたはずなのに、一の腕の呼び名が消えたワケが分かったような気がした。

「二の腕」の話題に触れる機会がありました際には、今回のお話の何かしらを頭の片隅でちらりと思い出していただけましたら幸いです。

そして、知人と私のよく分からぬ名誉のために小声で付け加えておこう。

この日は、くだらない話に終始していた訳ではなく、中身ある話もちらりほらりとあったことを。

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残暑の熱を和らげてくれるバジルの咲き姿。

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オーガニック食材などを専門に扱っているショップの前を通り過ぎようとしたとき、おしゃれな黒板風の看板に、「バジルの季節ももうすぐ終わります」とあった。

気まぐれでバジル栽培をしていた時期もあったけれど、思っているよりも手軽に手に入るバジルということもあり、いつの間にか購入専門派に落ち着いていた。

ハウス栽培のものなどは秋が来ようが冬がやって来ようが、スーパーで購入できるけれど、旬が終わると知って思わず店内に足を踏み入れた。

大きな袋にたっぷり詰めらたバジルの葉が積まれていて、道の駅などで取り扱われているような、豪快な雰囲気を醸し出していた。

バジルのそばへと近づけば、爽やかさの奥に、ほのかに感じる甘い香り。

バジル好きにはたまらない香りである。

通常販売されているバジルの葉よりも大きく成長した葉が大量に混ざっている所をみるに、露地栽培もののバジル最後の収穫物といったところだろう。

それならば、もう少し今年の露地栽培もののバジルを自宅で楽しめるよう、ひと手間加えるかと、大きな袋をひとつ、手に取った。

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バジルの保存方法は色々とある。

私はその時の気分でバジルの葉を塩漬けにしたり、ニンニクや鷹の爪と一緒にオイルに漬け込んだり、バターに練り込んだりするのだけれど、今回は一番ラクな乾燥バジルで保存することに。

きれいに洗ったら、水分を拭き取って、キッチンペーパーを広げたお皿の上に葉っぱが重ならないように広げ、500Wから600Wで1分から1分30秒ほど加熱して乾燥バジルに。

これをフードプロセッサーで好みの大きさに粉砕して小瓶に移し替えたら出来上がり。

フードプロセッサーを使わずに、ビニール袋の中に入れてワシャワシャと手で揉み砕いてもいいし、すり鉢で擦ってもいいし、この辺りは自分が感じるラクを選べばよいので、お手軽である。

脳内シュミレーションも出来たところで、バジルの袋を手に店内を見回っていると、売り物ではない鉢植えのバジルに白くてかわいい花が咲いていた。

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店員の話によると、バジルはかわいい花を咲かせるけれど、花が咲くと栄養を花に使われて葉が硬くなってしまうこともあり、蕾の段階で直ぐに摘み取られるのだとか。

だから、バジルの花を見たことがない方も多いのではないだろうかという思いから、今年は一鉢、蕾を切り取らずに鑑賞用に育てたのだそう。

バジルの花は一斉に開花するのではなく一段ずつ咲いていくそうで、眺めていると、その咲き方までも可愛いと感じるようになるのよと、隠しきれない興奮を漂わせながら仰った。

私も大勢の中の一人に漏れず、バジルの花を目にしたのは、このときが初めてだったように思う。

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最近、目にした話題に、「香草の価値は、花を咲かせた状態で出荷する方が通常の倍に跳ね上がる。」というものがあった。

ありそうで無かった、食事を五感の全てを使って味わう日本人ならではの新しい視点だと感じたのだけれど、確かに、バジルの葉を使ったカプレーゼの盛り付けに、ちょこんと白いバジルの花が添えられていたら、お皿の中の華やかさはグッと増すように思う。

咲くことを許されなかったバジルにも、新しい自由がやってくるのかもしれないと思ったりもした。

この時季、収穫を終えて放置されたままのバジルを目にする機会がありましたら、少し目を止めて白い花を観察してみてはいかがでしょう。

爽やかで可愛らしい花が、残暑の熱を和らげてくれるかもしれません。

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宝石の欠片みたいな雨が降るときに。

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この時季に降る天気雨が好きだ。

青空から無数の雨粒がザザザザーッと音を立てて落ちてくる。

太陽の光に照らされながら落ちてくるそれは、宝石の欠片みたいにキラキラとしていて、ちょっと嬉しい。

薄暗い景色の中で降りだした雨に遭遇した時には、雨宿りをと思うけれど、天気雨に遭遇した時には、少しくらい濡れてしまってもいいかと思えるところもイイじゃないか。

あとは、天気雨が上がった後の虹。この時に空に架かる虹は大きくて立派なものが多く、これも、この時季に降る天気雨が好きな理由のひとつだ。

あぁ、でも。

熱し続けられたアスファルトや地面からは一斉に蒸気が立ちのぼり、眩暈がしそうなくらいの蒸し暑さに覆われるのは厄介である。

それでも、しばらくすれば、その蒸し暑さも、空気に張り付いている夏の暑さも燃えカスも、時には胸の奥につっかえている諸々までも、その雨がきれいさっぱり洗い流して、在るもの全てを秋へ誘ってくれるようにも思う。

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晴れているのに雨が降る不思議。

このカラクリは、いくつかあるようなのだけれど、私の記憶に残っている話は、本来は空に仄暗い雨雲が浮いていたのだけれど、その雨雲が作った雨が、地上にいる私たちの目や体に触れる頃、その雨雲は跡形も無く消えてしまっているというもの。

我が身を雨に変えて人知れず消えていくと聞けば、その姿をひと目でもと思うけれど、雨に気がついてからではやはり遅いようで、姿無き、天気雨を降らせる雨雲を、シャイな奴め!と思いながら落ちてくる雨粒を見上げるのである。

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そう言えば、この天気雨を「狐の嫁入り」と呼ぶことがあるけれど、イギリスでも天気雨のことを「狐が結婚式をしている」と表現する人がいた。

聞くところによると、イギリス人の共通認識というレベルの話ではなく、生まれ故郷によってそう表現するところがあるということだったけれど、遠く離れたところで天気雨を見て同じことを思うとは、興味深い。

イギリス人では無かったけれど、天気雨は狐の結婚式ではなくクマの結婚式だという人も居た。

所変わればだけれども、青空から落ちてくるキラキラと光る雨を見て、何か不思議な気持ちになるのは、人の性なのかもしれない。

もちろん、天気雨は、空の上で摩訶不思議なことが起きているのではなく、説明がつく現象によって起きるものだけれど、「見え過ぎないからこそ良い」というモノゴトも世の中には多々あるように思う。

降り出した天気雨を眺めながら、そのようなことを感じた日。

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残しておきたい気持ちと使ってこその思い。

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先日、日本の伝統色で構成された色鉛筆があることを知った。

色鉛筆を仕事道具のひとつとして使用している私は、それがどのような色彩のものなのか気になり、販売元のサイトをのぞいた。

平安時代や安土桃山時代、江戸時代に使われていた色でまとめられていたのだけれど、大人が愛でて楽しむことができるような、素敵な色鉛筆だった。

好きな着物の色使いを見ると、自分がどの時代の色に惹かれる傾向にあるのか垣間見ることができるけれど、雰囲気は違えども、日本の伝統色は繊細かつシックでとてもカッコいい、と私個人は思っている。

そして今回目にした、この雅な雰囲気をまとった色鉛筆は、木工芸職人の手によって生み出された白木製のシンプルな木箱に収められていた。

一見、どこにでもよくある四角い木箱のように見えたけれど、よく見れば繊細なカーブやソリを施された面があったり、角が程よく削り取られていたりと、丁寧な職人技が集結した木箱だった。

色鉛筆以上の諸々が合わさった美術品のような色鉛筆は、お値段も私が知る色鉛筆のお値段ではなかったけれど、

日本の伝統色と現代の技術が合わさってできた色鉛筆に、日本が誇れる職人技術とセンスが詰め込まれた色鉛筆ケース、そこに伝統色の色名の由来が書かれた説明書がついており、まさに大人のための色鉛筆だった。

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この色鉛筆のように、物本来の用途に様々な付加価値がついた商品を目にする機会があるけれど、それを手にとった人は実際にそれを使うのだろうか、それとも飾っておくのだろうか。

はたまた、大切に保存しておいて、時々、保存場所から取り出して愛でるのだろうか……と思うことがある。

少し前にも、世界レベルのオークションで日本のウイスキーに驚くほどの高値が付いたと話題になっていた。

日本のウイスキーを高値で落札した方は、ウイスキーのコレクターかウイスキー投資を行っている方だろうと思うのだけれど、

この件に対してマスコミからコメントを求められたウイスキーの作り手の方は、ウイスキーを飲んでいただけるのかどうか、その点が気になっていると困惑気味な声色で答えていたのが印象的だった。

物に対して、大切に残しておきたいという気持ちと、物は使ってあげてこそ生きるという両方の気持ちに挟まれることがあるけれど、素敵な色鉛筆を画面越しに眺めながら、自分だったら、これを飾るだろうか、使うだろうかと想像し、しばらくは飾っておくのだろうなという結論に達した。

そして、しばらく経った頃、背筋を伸ばしてガシガシと使い始めるのだろう。

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同じものを手にしても、その物の何処に、どのような価値を感じるのか、人の数だけ答えがあるように思う。

値段なのか、デザインなのか、色なのか、所持することそのものなのか、そこから得られる何かなのか、それを手にすることで得られるステイタスなのか等々。

自分の周りに置いている物を少し離れたところから眺めてみると、気が付いていない自分がそこに居たりするのかもしれない。

そのようなことを思いながら、普段使用しているペン型色鉛筆のダイヤルをカチカチと赤に合わせた日。

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「ベッドで朝食を」の裏にあるパンくずの最期。

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古い洋画をちらちらと眺めたり、台詞を拾い聴きしたりしながら資料を整理していたときのことだ。

ふと、顔を上げると貴族女性がベッドの上で朝食を取っている画が映し出されていた。

ワタクシ、このようなシチュエーションは英国貴族のものだと思っていたのだけれど、英国暮らしを初めて数か月ほど経った頃だっただろうか。

今でも「世の奥様方の全員が」とまではいかないまでも、ある程度の数の奥様たちはベッドの上で朝食を取っている現実があると知り、目を丸くしたことがあった。

もちろん毎日という訳ではなく、週末や誕生日、何かスペシャルなことがあったとき等、それが行われる日や頻度はご家庭によって異なるけれど、

英国には、夫が妻のために朝食を作り、その朝食をベッドで寛いでいる妻へ持って行くという風習があるのだ。

気になる朝食の内容は、毎回映画のようにとはいかないようで、紅茶だけ、紅茶とトースト、そこに目玉焼きやサラダが付いていたり、パンケーキやヨーグルト、中には庭から切り取ってきた花が添えられていることがあったりと、人によって多少異なるという。

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いつの時代のことだったか、詳細は記憶から薄れてしまったけれど、ある時代にあった、寝起きにベッドで紅茶を飲む風習から始まったのだとか。

この時代は、各家庭にお手伝いさんが居たこともあり、その家の主夫婦にお茶を出すのはお手伝いさんの役目だったそうだ。

しかし、これがいつの間にか夫は妻のために朝食をつくり、その朝食を妻が待つベッドへ運ぶという風習として定着したのである。

そうそう、ある日、友人と立ち寄った雑貨店で、素敵な装飾が施された小さなテーブルを見つけたことがあった。

それは、日本であれば、おままごとに使ったり、観葉植物を置く台として使ってもいいのではないだろうかと思うようなサイズ感のテーブルだった。

当時の私は、見たまま、感じたままのことを友人に伝えたのだけれど、これはベッドで朝食を食べるときに使うテーブルで、観葉植物を置いたり、子どもが玩具として使っていいテーブルではないと言われ、「あの風習は真実なのだ」と改めて胸に刻む瞬間となった。

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その風習は、とても優雅な雰囲気で、想像した回数は一度や二度ではないけれど、毎回、想像してすぐに私は日本人だと思い知るのである。

私だって英国女性と同じく、ベッドの中でゆっくりと寛ぐ時間は大好きなのだけれど、そこで、カリッと焼き色をつけたトーストなどを口にすれば、どんなにお行儀よくパンを口に入れたとしても、パンのくずはポロポロと辺りに飛び散るに違いない。

それを片付けるのは誰なのだろうか?

何だかとても面倒で、優雅な雰囲気も一瞬にして覚めてしまうように思うのだ。

じゃぁ、お手伝いさんが居たとして、全ての面倒を引き受けてくれるとしたらどうだろうか。

そう思ったことも一度や二度ではないのだけれど、それもそれでちょっと煩わしい……なんて思ったりもして。

どちらにしても私の場合は、そのようなイベントが日常化し、毎週末の寝起きに待ち構えていたとしたら、寛げないじゃない!と、その小さなテーブルをひっくり返したくなるのではないだろうか。

英国の優雅さには日本のそれとは異なる大らかさが必要なのかもしれない。

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古い映画を眺めつつ、そのようなことを思っていたのだけれど「食後のベッドに散らばっているであろうパンくずを片付けるのは誰のお役目なのか?」調査せずに帰国し、長い年月が経っていることに気が付いた。

パンくずの最期の件、そのうち調査してみようかと思った午後である。

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素敵な秋の始まりにチョコレートコスモスなどいかがでしょうか。

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そのビルの外には、エントランスに向かう上り階段に沿うようにして、両サイドに小さな花壇が設けてある。

植えられている植物はシーズン毎に植え替えられているのだけれど、咲き姿が、段々畑に咲く花のように見えるものだから、暑い日も寒い日も雨の日も、ここを通る時には何となく視線が向くようになった。

少し前までは、ビタミンカラーのポーチュラカが夏の日差しに負けないくらい、エネルギッシュに咲いていたのだけれど、先日久しぶりにビルの前を通るとピンク色をした秋桜(コスモス)が植えられていた。

秋に咲く桜と書いてコスモス(秋桜)だけれど、その淡いピンク色が春の桜に似ていて、秋桜(コスモス)とは上手いことを考えたものだと見ず知らずの名付け親のセンスに感心した。

私は、秋桜(コスモス)の時季が来たらチョコレートコスモスを自宅のリビングにと、昨年の晩秋から密かに思っていたため、その足でフラワーショップへ立ち寄った。

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チョコレートコスモスとは、昨年の晩秋頃に知ったばかりのコスモスの品種なのだけれど、特徴は色と香りである。

色は、深紅にビターチョコレートを混ぜ込んだような、シックで落ち着きあるダークカラーで、その香りは、ココアやチョコレートに少しバニラを混ぜたような印象で、涼しくなってきた頃に似合う香りをしている。

フラワーショップで偶然目にしたのだけれど珍しい品種ということで、その日に入荷したチョコレートコスモスは全て売却済の紙が貼ってあり、自宅でそれを堪能するに至らなかったのだ。

どうして、チョコレートのような魅惑的な香りがするのか。

その時の店員の話によると、チョコレートコスモスの香りの中には、実際のチョコレートに含まれている香り成分と同じ成分が含まれているため、秋桜(コスモス)なのにチョコレートの香りがするということだった。

こうして、チョコレートコスモスという存在を知ったものの自宅に持ち帰ることができなかったため、来年こそは、コスモスからふわりと漂ってくるチョコレートの香りを自宅で堪能しようと、『柊希の、2019年に叶えたいことリスト』というリストに書き加えていたのである。

そして季節は巡り、叶えたいことを胸にフラワーショップへ行ったのだけれど、今回は残念ながら空振りに。

しかし、今年はチョコレートコスモスの夢が叶う予感、大である。

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今回、挿絵代わりに挿入しました画像は全て、チョコレートコスモスです。

どこかで、このような大人の表情をしたチョコレートコスモスに出会われた際には、可能であれば鼻を近づけて、チョコレートコスモスからの香りの贈り物を受け取ってみて下さいませ。

素敵な秋の始まりとなりますように☆彡

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ハレとケを見守るエニシの場所。

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予定時刻まで時間に余裕がないときに限ってタクシーが捕まらない。

それもそのはず、その日は土砂降りが長引いており、ほとんどのタクシーが出払っていた。

他の移動手段も脳裏を過ったけれど、このような時は急がば回れ。

専用ベンチに座って、薄灰色に染まった空を眺めながらタクシーを待つことにした。

5分、10分……どれくらい、そうしていただろうか。

いつの間にか隣に腰掛けていたご年配の女性から「あなたのお家には縁側や勝手口はある?」と声をかけられた。

私が、マンション暮らしが長いから縁側も勝手口もない暮らしだと答えると、彼女は手にしていた杖を何度も握り直しながら深く大きく頷いて、「今はそういうお宅が多いけれど、棺桶はどこから出すのかしらと思ってね」と返ってきた。

私は亡き祖母から、この手の話を聞かされたことがあり、その女性が何を言わんとしているのか察することができたけれど、そのような風習も、いつか無くなるのだろうかと思った。

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今回は、自宅の出入り口の使い方、出入口のお作法に関するお話を少しと思っております。

ご興味ありましたら、ちらりとのぞいていって下さいませ。

マンションにお住まいの方が、個人で使用している出入口と言えば「玄関のみ」という場合が多いけれど、戸建てのお家にお住まいの方の中には、玄関意外にも縁側、裏口、勝手口など複数の出入り口を用意している場合もあるかと。

戸建てのお家でも、年々、出入口の数を減らす傾向にあるそうなのだけれど、複数の出入り口を用意しておくことは、日本の風習がもとになっているのだとか。

先人たちは、日常生活の中で玄関や縁側、裏口、勝手口といった幾つかの出入り口をシチュエーションや立場によって使い分けていたといいます。

私たちからすると玄関が家の顔であり、メインの出入り口という感覚があるけれど、本来は仏壇までの道のりが一番短い縁側が玄関よりも格式が高かったよう。

日常的に使う出入り口は玄関。

ハレとケの非日常に使う出入り口は縁側。

玄関を使うと、家主などの日常のリズムを壊してしまうようなシチュエーションや時間帯に使う出入口は裏口。

御用聞きや郵便配達などの生活に関わっているものごとに使われる出入り口は勝手口。

このような使い分けには、相手の生活スタイルやリズムをこちらの都合で乱してしまわないようにという配慮からきたお作法だ。

現代にどっぷり浸かっている私の感覚としては、あちらこちらの出入り口から人が訪ねてくるよりも、玄関ひとつにまとめてくれた方が、何だか安心する気もするのだけれど、先人たちは人を訪ねるときも、その内容や時間帯、その他諸々に配慮していたということである。

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そして、冒頭で触れた、ご年配の女性が発した「棺桶はどこから出すのかしら」という部分なのだけれど、

玄関は、人や物の出入り口として使われている場所だけれど、日本の風習には「棺(ひつぎ)」は玄関から外へ出してはいけないというものがある。

この理由は諸説あり、お住まいの地域によって異なる部分もあるようなのだけれど、「棺(ひつぎ)」は「縁側から出す」というのがお作法だ。

外へ出ることが出来る場所が玄関のみ、という設計も少なくない現代の住宅事情をもとに想像すると、メインの出入り口である玄関を使って出すのでは?と思ってしまうけれど、

玄関は日常使いのものなので、大切な方を御見送りするという非日常のシチュエーションでは縁側を使うということである。

縁側は、御見送りに限らず御祝いごとのご報告をする際も、まずは仏壇の前へ行ってご先祖様にご報告をするという考え方から、まずは玄関から家の中に入るのではなく縁側からというお作法がある。

しかし、このお作法は時代と共に薄れてきており、玄関から家の中へ入り、そこから仏壇へ向かうという流れが主流になりつつある。

現代人のライフスタイルや印象で見ると、玄関よりも縁側の方が格式高いという点に少し戸惑うけれど、その名の通り、縁側は、ご縁に関する場所ということなのかもしれない。

地域によってお作法が異なることはよくありますけれど、このような考えのもとに在るお作法だということを知識として頭の片隅に忍ばせておけば、自分と同じ場合も異なる場合でも、臨機応変にその場のベストで対応できるように思う。

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縁側でほっと寛ぐ機会がありました際には、ハレとケを見守るエニシの場所でもあることを、ちらりと思い出していただけましたら幸いです。

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先人たちも一石二鳥以上を狙っていた気がする芋名月。

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残暑に気を取られているうちに空気はすっかり秋の匂いだ。

初夏に香るフレッシュな草木の匂いも良いけれど、秋に鼻先を擽る、少し乾いた草木の匂いも風情があっていい。

そのようなことを思いながらガーデンチェアで乾いた喉を潤わせていると、ふわりと甘い香りが風に乗って運ばれてきた。

それが秋桜(コスモス)のものだと分かったのは数日経った後だった。

9月に入り、重陽の節句(菊の節句)も過ぎ、十五夜の日もすぐそこまで来ている。

いつまでも暑いだ残暑だと言っているのは私の方で、自然は暑かろうが寒かろうが関係なく、着々と自分が刻むべきペースを刻んでいるように思えた。

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そうそう十五夜は、旧暦の8月15日に行うお月見のことなのだけれど、「芋名月」や「中秋の名月」という異名を持っております。

芋名月は旧暦の8月15日のお話ですので、これを現代に当てはめると毎年芋名月の日は変わります。

今年は9月13日が芋名月です。

この日は、ススキやお月見団子、収穫した農作物、お酒などをお供えするのですが、稲穂の姿に似ているススキは、稲の豊作を祈るためのお供えものという以外にも、

魔除け効果を持ったススキをお供えすることで、家族皆が一年間、病気を患うことなく過ごすことができるという意味があります。

メインとなるお月見団子も、収穫したお米を材料にすることで改めて、農作物を収穫できることに感謝し、月に見立てたお団子を食べることで健康と幸運(ツキ=月)を手にすることができるという意味があるのだとか。

また、このお月見は、お芋の収穫を祝うものでもあったことから、サツマイモや里芋をお供えしたり、食べるという風習もあります。

お団子やススキの準備まで手が回らないという時には、サツマイモや里芋を使ったお月見メニューで五穀豊穣や家族の健康を祈るのも良いのではないでしょうか。

五穀豊穣と人々の基盤である健康を共に願うことができるようになっている辺り、先人たちが本当に必要なことや本当の願いをしっかりと知っていたことが窺えます。

豊かさは素敵だけれど、ある一定の豊かさが当たり前になってしまうと、このようなシンプルなことへの感謝や思いが後回しになることもあるので、このような歳時記を通して触れることで、自分の軸を自分の真ん中に据えることができるようにも思います。

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過去に何度か触れているのですが、お月見は十五夜だけではなく十三夜も是非。

片方だけお月見をするのは縁起が悪いため、「お月見をするならば十三夜もセットで」と言われております。

片方だけ見ることは縁起が悪い、と言うならば、十五夜(芋名月)も見送ってしまおうなどと言わずに、楽しく、ワクワク夜空を見上げたり、お月見メニューを楽しむなどしてみて下さいませ。

芋名月まで、あと数日ですが、ここから始まる新しい1年が、ここへ足を運んでくださっている皆さんと、皆さんの大切な方々にとって様々な豊穣と健やかさに満ちたものになりますよう、芋名月に込めまして、本日はお開きとさせていただきます。

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皆のお顔に忍び寄る3センチ。

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「暮らしの相棒」のひとつだった我が家の冷蔵庫が代替わりをした。

度重なる引っ越しにも耐え、大きなトラブルを引き起こすことなく、私の胃袋を満たすことに尽力してくれていたのだけれど、先日初めて食材をガッチガチに凍らせた。

いつお役目を終えてもおかしくないと薄々気が付いていたのだけれど、呑気に構えていた矢先のことだった。

だからだろうか、「急に壊れてしまったら困るだろうから、今すぐ決断して」と冷蔵庫に背中を押されたような気がして、その日のうちに新しい冷蔵庫を手配した。

すると、入れ替え前日の夕食後、もう頑張らなくてもいいのだと安堵したのか、冷蔵庫にいくつかの不具合が生じた。

時々、家電というものを不思議な存在だと感じることがある。

言葉を発することはないけれど、空気のような距離感で人に寄り添っているように思うのだ。

我が家を去る相棒の後ろ姿を感謝の気持ちで見送りつつ、ちょっとした淋しさも感じていたはずなのだけれど、入れ替わりで運び込まれた新たな相棒に心躍る自分がいた。

設置業者の方々の作業を眺めていると、「3センチくらい」というフレーズが幾度か登場した。

ここ最近、3センチという単位をよく見聞きしていたものだから、思わず「またか」と思った。

人が3という数字を選ぶ感覚や心理が働いているのかもしれないのだけれど、感覚や心理の話題は、またいつか機会がありましたときにでも。

ということにして、今回は、最近見聞きした「3センチ」の話題の中から人の顔は20代から60代までの間に3センチ程度伸びているというお話を少し。

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どのタイミングで顕著に表れるのかという点は個人差があるけれど、

人は皆、男性、女性を問わず、20代から60代までの間に少しずつ顔の長さが伸びると言われている。

その原因は御察しの通り、年を重ねてきたことや、年齢と共に顔の筋肉が衰えてきたことによる皮膚のたるみなどだという。

そして、その伸びるであろう長さが約3センチなのだとか。

それなりに年月を重ねてきた素敵な証でもあるけれど、顔というパーツ内で言う3センチは、なかなか大きな数字ではないかと怯んだりもする。

この3センチを最小限に止めるには、表情筋を動かして筋肉の衰えを抑えたり、リンパの流れをスムースにして不要なものが溜め込まれるのを防いだり、お肌のコンディションを内側からも外側からもケアしておくなど色々とあるけれど、

私がお世話になっている経絡アロマセラピストの方のお話によると、表情筋を動かすだけでも十分に変化が表れるという。

周りに人がいないことを確認した上で「あ・い・う・え・お」と、口をゆっくり大きく丁寧に開けて発音してみたとき、顔の筋肉がプルプル震えるような感覚を覚えたり、口を大きく開くことを大変だと感じるようであれば、表情筋が弱っているのだとか。

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特別なことをするのは少し大変だということであれば、お風呂上りに体を拭きながら、髪の毛を乾かしながら、キッチンでお料理をしながら、テレビを観ながら……、思い出しついでに「あ・い・う・え・お」と、口をゆっくり大きく丁寧に開けてみてはいかがでしょう。

1か月後、心なしかフェイスラインがキュッと上がっているかと思います。

そうそう、口角をキュッと上げて過ごすのも表情筋のエクササイズになると言います。

笑う門には、あの3センチを跳ね返すキュッと上がったフェイスラインという福も来るようですので、「あ・い・う・え・お」の後は口角をキュッと上げて下さいませ。

今できることを、今できるぶんだけ楽しんで、頑張って、それから先のことはまた改めて。

本日も、楽しくまいりましょうね☆彡

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稲妻のパートナーは誰?

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急に、地面を叩きつけるような強い雨が降り出した。

その大きな音が気になってリビングの窓のそばへ行くと、いつも目にしている建物や植物の一切合切が真っ白なベールで覆い隠されていた。

ゴロゴロと鳴り始めた雷とヒューヒューと音を立てながら吹く風に耳を傾けながら、何も見えない真っ白な景色を眺めていると、空にピカピカッと稲妻が走った。

絵に描いたようなギザギザ具合に、おっかなさは一瞬にしてどこかへ吹き飛んで、思わず子どものようにニヤケてしまった。

久しぶりに見た立派な稲妻を見たものだから、もう一度という気持ちで外を眺めていると、その後も数回、異なる長さの稲妻が空に現れた。

辺りがピカッと明るくなった直後に、空が割れるのではないだろうかと思うほどのゴロゴロという雷音は、さすがに少し怖いと思った。

稲妻は、もともとは「稲夫」と書いていたそうなのだけれど、いつの時代か、誰が発端なのか、「稲妻」と誤った表記が定着したものだと、何かの本で読んだことがある。

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稲妻は雨と関わりが深いけれど、先人たちは、雨が降り、雷が多い年は稲がしっかりと実ることを経験で知っていたのだそう。

そして、この経験から、「稲が雷の光を浴びると妊娠して子を宿す=稲が実る」と考えられるようになり、稲(奥さん)の配偶者である夫(つま)を雷とし、稲夫(いなづま)と呼ぶように。

「妻」も「つま」と読むことができるけれど、古語では「夫」も「つま」と読むことができるため、稲夫(いなづま)と。

農作物のことを全てプロにお任せしてしまっている人がほとんどである昨今、稲夫、稲妻という字を見てもその語源を推測できる人は少ないのだろうけれど、とても面白い発想だと思う。

そして、この稲の実りには雨だけでなく雷の放電がとても重要な役割を果たしているのだとか。

私の今の知識では十分な説明はできないのだけれど、簡単に言うならば、

空中で雷がピカピカッと放電するとき、空中では何かしらの化学変化が起きており、その化学変化でできた成分は天然の栄養がギュッと詰まった肥料のようなもので、

これが雨と共に植物たちに届けられることで稲がしっかり実ったり、植物がイキイキと育ったりするそうだ。

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そのようなことを思い出しながら、時折、激しく鳴り響く雷の音にビクッとしつつ、美しく光る稲妻を鑑賞した。

そして、今年も美味しいお米をいただけそうだと再びニヤリ。

そうしていると、雨風が少しずつ静まって、風に流された激しい雨によって汚れを洗い流されたベランダに太陽の光が差し込んできた。

ベランダ掃除を1回スキップできるかしら?とズボラな考えとともに、自然の力に感謝しきりの午後である。

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