私がイギリスに住んで居た時に高い確率で受ける質問があった。
「日本人は馬を食べると聞くけれど本当?」というもの。
「住んでいる土地の風習や環境なども影響しているから
皆が皆というわけではないけれど食べますよ」と答えると、
「あなたも馬を食べるのか?」と続く。
日本人はこのようなストレートな問いに弱い。
さすがに大好きです、とは言い難く
「私は食べます」とシンプルに答えると、
九割ほどの人は眉間にシワを寄せて、ちょっとひいてしまう。
その空気がダイレクトに伝わってくるので、
いつもの事だと受け流せるようになってからも、
胸の内に湧く複雑な思いは変わらなかった。
私も馬と戯れることもある。
馬をペットの様に可愛がるイギリス人の立場からしてみれば
理解できるリアクションだ。
例えば、中国や韓国では犬を食べる所があるけれど
日本人がその話を聞けばきっとイギリス人と同じリアクションをとるだろう。
だから、どちらが正しいとか、間違っているではなく、
感情の立ち位置や在り方、
身を置かれている環境で、
随分と物事の見え方や感じ方は変わってくる。
確か数年前にヨーロッパで食品偽装のニュースがあった。
フランス企業の牛肉加工食品の中に馬肉が使われている事が発覚したのだ。
ヨーロッパでも馬肉を食べる国と食べない国が在り、フランスは前者。
社会情勢の不安定から飼馬を手放す人が増え、
その結果の食品偽装、という話もでていたように記憶している。
このニュースを受けたイギリス国内では
「混入していたのが鶏肉ならこれほどの騒ぎにはならなかっただろう」と
報じた新聞社もあったのだとか。
このような話題を目にするとき、いつも感じる事がある。
絶滅危惧種の保全目的を除いたとして、
例えば鶏や牛や豚なら良い理由は何なのだろう?
似たような問題でクジラが取り上げられたりもするけれど、
マグロやサバなら良い理由は何なのだろう?と。
もちろん言いたいことは分かるのだけれども
何事もある一定方向からの目線のみで見てしまうと
ものごとの本質までもが揺らいでしまうような気がする。
今は豊かな時代で、
どちらかと言えば嗜好品に分類されてしまうものもあるけれど
もともとは、人間も生きていくための手段として
口にしたはずなのだから。
少し前に好きな馬刺しを、
これまた好きな薬味色々と一緒に堪能し、
美味しい~と噛みしめ味わいつつ、
頭の片隅で、そのような事を思い出していた。
生きていく為には見ないふりをしたままではいられない事や、
当たり前になりがちな事を
思い返さなくてはいけない時があるように思う。
たくさんの命によって、
生かされている命だということを。
今日は、いつもの「いただきます」に
もうひと想い込めて感謝の「いただきます」を届けてみませんか。