先日、自然に囲まれた場所で久しぶりに美味しい空気を堪能しました。
普段、自分の生活圏内の空気のことは気にも留めていないのだけれども、
澄んだ空気を前にすると人の体は勝手に深呼吸を始めてしまうものなのですね。
空気がきれい。
私がそう頭で思った時には既に澄んだ空気をお腹いっぱいに吸い込んでおりました。
まだ山の木々は青かったのですが、
目を凝らして見てみると、あと数日もすれば色付き始めるであろう
黄色や赤に色づき始めた葉先に太陽が反射し、
ほんの少し、紅葉の訪れを先取りしたかのような気分になりました。
紅葉と言えば、どうして紅葉狩りというのか不思議に思われたこと、ありませんか?
狩るものなどは何もなく、ただただ美しい紅葉の光景を鑑賞するだけ。
春のお花見と変わらないのだから紅葉見でもおかしくはないのでは、と。
「狩り」という言葉には鳥や獣を捕まえる意味がありますので、
もともとは、鷹狩り、うさぎ狩り、鹿狩りなどと使われていました。
これが、次第に果物などの収穫を表す言葉としても使われるようになり、
私たちが耳慣れている、りんご狩り、ぶどう狩り、松茸狩りといった使い方もするようになりました。
これが、更に秋の草木を鑑賞する際にも使われるようになります。
この由来にはいくつかの説があるようなのですが有力なものとされている説は、
平安時代にまで遡ります。
この「紅葉狩り」という言葉は、万葉集にも登場するのですが、
この時代、狩猟をしない貴族たちが現れました。
彼らの常識では、自分で歩くというのは、とてもお行儀の悪いことでした。
何とも妙な常識ですが、近かろうが遠かろうが移動は牛車というのが常でございました。
しかし、当時は紅葉は山奥でしか見ることができない珍しい植物だったので、
紅葉を見たければ山へ行き、自分の足で歩くしか方法がありません。
ですから貴族たちは、秋の草木や草花を自分たちの代わりに採集し
持ってくるよう家来に命じたのだそう。
そして、採集してきてもらった秋の草木や草花を実際に手に取り、
紅葉を楽しんだり歌を詠むなどして過ごしたのです。
この採集してくる行為は狩りに繋がるという考えから、
紅葉狩りという言葉が生まれたという説。
貴族たちの洒落た言葉遊びの中で採集を狩りに例えたという説。
この二つが現在のところ有力のようです。
「紅葉狩り」と言うと少しばかり違和感がありますが、
平安時代の貴族たちは、その言葉通りに紅葉を採集し、鑑賞していたようですね。
植物を観賞するという意味では、
春の桜を楽しむお花見も桜狩りと呼ばれていた時期があるようですが、
春に咲くお花はたくさんありますので
桜に限定せずに「お花見」となったのかもしれません。
紅葉は晩秋の楽しみのひとつ。
秋風に乗ってはらりと舞う落ち葉と柔らかな秋の日差しは、
ちょっぴり人をセンチメンタルな気分にさせることもありますが、
自然の息吹を感じられるひとときです。
あっという間に過ぎ去る秋も、全身で欲張って感じていきたいものですね。