今年に入ってからだっただろうか、
自宅から、そこそこ離れた場所にある複合商業施設へ行った。
施設をぐるりと取り囲む辺りは緑が豊かで、吸い込む空気も瑞々しく、
思わず、何度も両手を広げて深呼吸をしてしまったほど。
見上げた空は冬の冷たさを含みつつも澄んだ青をしていた。
到着早々、私の五感を揺さぶった自然の息吹が印象的だったと言いたいところだけれども、
現実は少し違った。
賑やかな街中の一角を切り取って大自然の真ん中にポンッと置いたようなミスマッチさに、
少しばかり妙な気分になったことの方が印象的だった。
そのような事が足早に脳内を流れ施設内を気が向くままにぷらぷらと見て過ごしていると、
迷子のアナウンスが聞こえてきた。
世知辛い世の中の影響で親も子どもたちにしっかりと目を光らせているからだろうか、
迷子のアナウンスを随分と久しぶりに耳にしたような気がした。
久しぶりに聞いたアナウンスも個人情報への配慮がされているような、
含みを持たせた内容だったため、
思わぬところで“今の時代”を体感させられたような気がした。
私は子どもの頃に一度だけ、迷子センターのお世話になった記憶がある。
しかし、それは少々風変わりなものだった。
親戚ふた家族で複合商業施設のようなところへ遊びに出かけたときだったと思うのだけれども、
同世代の従姉妹たちと親たちの後ろを付いてまわっていた。
様々な物に目移りしているうちに、
いつの間にか大人チームと子どもチームと言った具合に逸れてしまった。
出来る限り辺りを探してみるも当時の私たちの視野では、
親たちの姿を見つけることはできなかった。
そこで、幼稚園児から小学校2年生までの私たち子ども4人は、
知恵を出し合い、迷子センターを利用することにしたのだ。
と、ここまでは上出来だと思う。
しかし、今思えば、係員の方々はさぞ困ったことだろうと思う。
迷子センターに到着した私たちは、迷子が出たから探してほしいと、
双方の親の服装と全員のフルネームを係員に告げたのだ。
しばらくして、“迷子のお知らせ”というタイトルのもと、
迷子になっているのは親たちの方だという言葉並びで、
両親たちのフルネームと服装は施設内に響き渡った。
子ども4人にとっては、
これで迷子になってしまった親たちも大丈夫だ、とホッとした瞬間だ。
それから間もなく、それはそれは恥ずかしそうな顔をした大人たちが到着した。
さすがに、その後のやり取の全てを覚えているわけではないのだけれど、
「迷子になったのは、私たちじゃなくて、あなたたちの方よ」
といったようなことを何度も言われた気がしている。
子どもながらに大まじめに考え出した“はぐれた親と再会する策”だったけれど、
恥ずかしそうにしつつ盛り上が(っているようにも見え)る母親たちを見ていたら、
いたずらが成功した時のような爽快感も薄っすらと感じたような記憶がある。
迷子センターも使い方次第だ。
自分の迷子センターの記憶を引っ張り出しながら歩いていると、
偶然にも迷子センターの前を通りすぎようとしていることに気が付いた。
視線を向けると、センターの前では小さな子どもと母親が再会している姿があった。
迷子センターの正しい使い方……親の心子知らず……。
そのような文字が頭の中をゆっくりと通り過ぎた。