パン屋さんのレジで私の前に並んでいたご年配の女性がお会計を済ませ、
その場を立ち去る前に「お先でした。さようなら。」とおっしゃった。
私も会釈と共に「さようなら」と返したけれど、
最近「さようなら」という言葉を使う機会が少ないからだろうか、
子どもの頃は確かに言い慣れていたはずだったその言葉に若干の言い辛さを感じた自分に驚いた。
生活環境や年齢、ライフスタイルによって使う言葉にも変化があるようで、
人は進化もするけれど進化した分だけ退化する側面もあるのだと体感したような気がした。
「さようなら」の語源は、
武家言葉で「左様ならば拙者、これにてお暇、仕る」や、
平安時代に女性が使っていた「さようならず」という言葉、などと言われている。
そして、明治時代に入ると男性が女性に「さようなら」と言えば、
女性は「ごきげんよう」と返したという。
この「ごきげんよう」という言葉、
現代から消えてしまったわけではないけれど、
若干、別世界の言葉のようになっているのは少々惜しい気がするのだ。
というのは、もともとは「ご機嫌良く」という言葉で、そこに含まれている「ご機嫌」というのは、
喜怒哀楽の類の気分のことではなく、体調のことを意味していた。
だから、「ごきげんよう」は、「元気にお過ごしくださいね」という意味を含んでいる、温かい言葉だ。
そして、温かいだけでも、別れ際の言葉だけでもなく、
「おはよう」「こんにちは」「こんばんは」という使い分けが不要で、
どのような立場の方に対しても使う言葉できる万能な挨拶だったりするのだ。
しかし、しっかりと生き残っているのは「さようなら」という言葉の方。
やはり、少し惜しい気がする。
「さようなら」
何だか永遠の別れのようなニュアンスを感じてしまうこともあり、
私は「じゃぁ、またね」や「お疲れさまでした」、「ではまた」といった言葉を選ぶことが多いけれど、
最近会っていない大切な人たちに最後にそう言ったのはいつだっただろうか、とふと思う。
もしかしたら、簡単に会えない状態が常だった先人たちの方が、
現代人よりも、人と深く、真剣に、大切に交わっていたのかもしれない。
また会える、明日も会える、すぐ会える。
本当は奇跡的なことなのだけれども目の前にある奇跡を忘れて遠い奇跡を願ったりもして。
そのようなことを思いながら、
腕に抱えた焼き立てのパンの香りを冷たい空気と一緒に吸い込んだ。
目の前にいる人との時間を大切にしていこう。
そのようなことを思った、ある冬の日。