つけっぱなしのテレビから、「最近の若い人たちは何でもラクをしようとするでしょう」と、
ご年配の女性の声で聞こえてきた。
時代や身を置く環境が異なれば、基準や常識さえも変わってしまう世の中だ。
そして、多くの人たちが無意識に、自分が経験したことを基準にしてモノゴトを見て、感じる傾向にあるため、
このような声がでるのも、ある意味自然と言えば、自然なことなのだろうと思う。
感じるも思うも個々の自由なのだけれど、それを相手に必要以上に強要しようとすれば双方間に不穏な空気が漂うこともある。
例え、良かれと思って発したことであっても、だ。
人との関り合いは、容易にはいかないもので塩梅や匙加減が大切であるように思う。
だからこそ、人との関り合いに対して今の自分が、「そんなに難しいものではないと思うけれど」と感じられるときと言うのは、
実は、自分が感じている以上に、とても幸せな状況下に在るのだと、ふと気付かされる機会でもあるのだ。
そのようなことを思いながら、テレビの向こう側の女性が、何に対してそのような発言をしたのか、確かめないままテレビの電源を切った。
すると、タイミングよく同業者である知人からのメッセージでスマートフォンがブルッと短く震えた。
中をのぞきこむと、日本語の日常語彙が年々細っていくことに対するボヤキが綴られていた。
言葉を扱っている者として、知人のボヤキも分からなくはないのだけれど、
私自身は、言葉も人と同じように生きていると思っているため、
日々、感じることはあるけれど、ある程度は仕方がないと思っていたりもする。
そのように思っている私でも時々、ドキリとする瞬間が年に数回ほどある。
今年に入ってドキリとしたのは、テレビドラマの台詞だっただろうか。
その辺りの記憶はもう残ってはいないけれど、
本来であれば、望ましくないシチュエーションでは使わないはずの「可能性」という言葉が、
「誘拐された可能性」「殺害された可能性」というふうに使われていたときだった。
この場合は、「誘拐された疑いがある」「誘拐が懸念されている」といった表現が適切だろうか。
いつからそうなってしまったのだろう、そう思ったときと言うのは、
その使われ方に目や耳がある程度慣れてしまっており、自分自身も日常生活の中で既に使っていることが多い。
私もどこかで、やらかしてしまっているな・・・・・・と、背筋に変な汗が流れた気がした。
言葉を意思疎通のツールとしてだけで見れば、「絶対に、こうでなくてはいけない」ということは無いのだけれど、
その時々に相応しい言葉をしなやかに選び取る楽しみや、その言葉から感じられる世界を覘く楽しみを、簡単に手放したくはないと思うのだ。
それに、人の想いは千差万別。
通じればいいというシチュエーションもあれば、思いの丈を余すことなく伝えたいと思うこともある。
世の中の流れを止めることはできないけれど、
とめどなく溢れる(様々な意味での)愛を伝えるための術は、いくつ持っていてもいいように思う。
自分が大切にしたいこと、大切にしていることは、いつでも見える心の場所に。
そのような思考の海を浮遊した、ある真夜中のとき。
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