あんこ餅を器に盛りつけた。
十分すぎるほどの小豆あんが、たっぷりとまぶしてある“あんこ餅”だ。
盛り付けながら、今は亡き祖母が作ってくれていたそれを思い出した。
少し作ったところで美味しくないと言い、毎回、こんなにも大量のあんこ餅を誰が食べるのだろうかという量をドンッとテーブルに出し、取り分けてくれていた。
ひと皿でお腹いっぱいになっていたのだけれど、
お代わりをすすめてくる祖母に対して、「こんなに沢山は要らない」とピシャリと言えたのは実の娘たちだけである。
孫である私は、せっかく作ってくれたことを思うとおかわりを断ることができず、
結果、しばらく“あんこ餅”は見たくないと思うくらいの量を食べていたように思う。
どのようなことに対しても豪快だったという印象が残る祖母から、
料理の小技や、料理にまつわることわざのようなものを、
知らぬ間に受け継いでいたことに気が付いたのは、随分と大人になってからのことだった。
ある時、祖母との会話の中身が、既に自分の一部になっていることに気付いてハッとし、
姿形は無くなってしまっても、こうして心の中で生きていくのかと、
何かがストンと腑に落ちた瞬間も幾度かあった。
記憶に残っている会話の中には、「一尺の薪をくべるより一寸の蓋をしろ」という言葉もあった。
当時の私からすれば、薪をくべるという動作が、日本昔話の世界観であり、今一つピンとこないと言うと、
祖母は笑いながら、煮たり、炊いたりするときには落し蓋を使いなさいということだと言った。
煮ものなどは火加減や味加減も大切だけれども、鍋に蓋をしておけば、熱が奪われにくく、
水分が過剰に蒸発することを防ぐことができる上に、
落とし蓋にぶつかった煮汁がお鍋の中で、しっかりと隅々まで巡ってくれるため、
短時間で味が食材に均一に染み渡り、煮崩れが無い見栄えの良い煮ものが出来上がる。
というのが煮物のセオリーだけれども、祖母は、そのような事を、もっと簡単な説明と、
幼い子には少々聞きなれない料理のことわざと共に私の記憶に刻んでいたのだ。
もちろん、祖母には孫の記憶に刻んでおこうという意識はなかっただろうけれど。
普段は使う機会も目にする機会もない「一尺の薪をくべるより一寸の蓋をしろ」という言葉だけれど、時々、祖母の豪快さと交わした会話と共に思い出す。
そして、今の私は、キッチンペーパーで作った落とし蓋を2枚用意し、
その間には追い出汁用の鰹節を挟み、追い出汁と灰汁取りを兼ねた落し蓋を使うのだ。
今に置き換えるなら、「強火にするより一寸の蓋をしろ」だろうかなどと思いながら。
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