その場所、シチュエーションに合った声の大きさとトーン、相手に合わせた話し方というものがある。
誰もが、無意識に調節しつつ話しているのだとは思うけれど、
自分の声のボリュームを調節するということは、自分が感じている以上に難しいことなのだろうと、他人の声の大きさやトーンに触れて感じることがある。
随分と前の話なのだけれど、英国在住時に、「日本人は皆、声が小さい印象を受ける」と言われたことがあった。
1人、2人に言われたくらいであれば気に留めることも無かったのかもしれないけれど、そのような印象を抱いている人は私が思う以上に多かった。
そう感じてからは、普段よりも大きな声で話すようにしてみたのだけれど、
出し慣れていない声を出し続けたせいだろうか、喉を傷めるという情けない状況に陥った。
郷に入っては郷に従えとは言うけれど、体を壊してしまうくらいなら私は私のままで。
そうあっさりと舵を切り直した私の喉が、その後、調子を崩すことはなかったけれど、
声の大きさやトーンに関する興味深い話を耳にした。
それは、日本人の話し方というのは、ある種の文化だという見方があるのだそう。
これは、先人たちの生活スタイルが元になっている。
先人たちが暮らしていた部屋と言えば、薄い障子紙が貼られた障子や、厚みがあるとはいえ防音効果までは備わっていない襖で仕切られていた。
しかも、そう広くはない続き間であれば、会話が外へ漏れてしまうことは容易に想像できる。
このような環境下で暮らしてきた日本人は、小声で話すことが習慣化し、日本人の話し方という文化となったという見方である。
だから、他国の方から日本人は大人しいだとか、声が小さくて自信が無いように見える、などといった印象を持たれることがあるけれど、
それは大きな声で話す文化から見た見え方であり、
日本の文化から見るそれには、人様に迷惑をかけないようにだとか、大切な話や内輪話を漏らさぬ配慮であるとか、様々な心配りや、奥ゆかしさの表れであるとも言えるように思う。
ただ、近年。
防音設備が整えられた空間で日々を送ることが当たり前となった現代人は、
所構わず大きな声で話す人が増えたとも言われている。
そうする必要が無くなったと見ることもできるのだけれど、
出来ていたはずの、自分の声のボリュームを調節するという力が曖昧になりつつあるのだ。
大きな声で話すことも、自信を持って大きな声を出すことも素敵なことで、
時にとても必要で、大切なことでもあるのだけれど、
場所やシチュエーション、話をする相手に合った声の大きさとトーンを調節できる術は、持っていたいと思う。
テラスで散った赤い落葉が風に舞い上げられる様子を眺めながら、そのようなことを思う午後である。
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