近所にある、リニューアルオープン間近のお店の前を通り過ぎようとしていた時だ。
作業中の一人が、「間違ってるぞ」と大きな声を上げた。
その声につられて、声が向けられた先へ視線を向けると、
掲げた看板の文字に間違いを見つけたようだった。
道具を使って設置し終えたそれを一度取り外し、看板制作のプロに手直しを依頼し、再び設置する。
その工程と要する時間を想像すれば、声の大きさと項垂れている作業員の気持ちも分かるような気がした。
ふと、あのシチュエーションは、どこかで似たようなものを見たことがある気がするのだけれど、何処で見たのだろうか、と思った。
いくら思い出そうとしても思い出すことが出来ず、気持ちを燻ぶらせたまま、その日を終えた。
しばらくして同じ道を通ったのだけれども、そのお店は装いも新たにオープンしていた。
お店の正面上には立派な看板が掲げられており、あの日の作業員たちの光景が脳裏を過った。
その時だった。
私が似たような光景を見たことがある気がしていたのは、
実際に目にしたわけではなかったと気が付いたのは。
そう思ってしまったのは、私が、弘法大師(空海)の逸話を勝手に頭の中でイメージしていた光景と、
先日の作業員たちの様子が、思いのほかリンクしていたからだと思った。
その逸話というのは、「弘法にも筆の誤り/弘法も筆の誤り」の語源にもなっているお話だ。
このことわざは、ご存知の通り、
その道のプロであっても時には失敗したり、間違えたりすることがあるという意味で使われている。
弘法大師(空海)は、様々な才能があり、いくつもの顔を持っていたのだけれど、
その中のひとつに、書の達人という顔があった。
どのような道具を使っても、魅力的な文字を書いていたと言われている。
この弘法大師(空海)、ある時、扁額(へんがく)制作を依頼されたのだ。
扁額(へんがく)というのは、街の出入り口に建てられているような、
大きな門や鳥居などの中央に掲げられている額のような、看板のようなもののことで、
建物や門、寺社やトンネルなどの名が書かれている。
弘法大使(空海)が文字を書き入れた扁額は、
作業員たちによって所定の位置に掲げられたのだけれども、
掲げ終えた後に、文字に含まれるはずの「点」を書き忘れていることに気が付いたのだそう。
簡単に付け外しなどできない時代だったと思うのだ。
どうしたものかと悩む作業員を横目に、弘法大使(空海)は、書き忘れた「点」を書き加えるために、
筆を扁額目掛けて投げつけ、文字を完成させたのだ。
この話は今昔物語の中に登場するのだけれど、
この話から、その道のプロであっても、時には失敗したり、間違えたりすることがあるという意味の
「弘法にも筆の誤り/弘法も筆の誤り」が生まれたといわれている。
お猿さんが木から滑り落ちてしまう様子や河童が溺れてしまう様子によって
同じような状況を表すことわざもあるけれど、
失敗や間違いを臨機応変に挽回する背景がセットになっている「弘法にも筆の誤り/弘法も筆の誤り」に魅力を感じてしまうのは私だけだろうか。
この背景を知っているか否かで、
言われた側(失敗や間違ってしまった側)の受け取り方も異なるのだろうけれど、
目上の方の失敗や間違いに対して使うときには、
「弘法にも筆の誤り/弘法も筆の誤り」を使うべきだと言われる理由は、ここにあるように思う。
もちろん、目上の方との関係性も考慮しなくてはいけないのだけれど。
弘法大師(空海)の、この豪快さ、嫌いじゃない。そう思ったある日の出来事だ。
本日も、口角上げてまいりましょ。
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