先日、見知らぬ女性に声をかけられた。
訊ねられたことに答えた後、その女性が言った。
「私はもう姥桜(うばざくら)だから」と。
「もう」と言う言葉から、その女性が謙遜されたことは直ぐに分かったのだけれども、
「姥桜(うばざくら)」という言葉がネガティブなイメージの言葉として定着しつつあることを残念に感じた。
「あの人は姥桜(うばざくら)のような女性だ」と耳にしたら、
なんて失礼なことを言うのだろう、と思う方が多いのではないでしょうか。
女が老いると書いて姥ですものね。
この文字のイメージが年齢を重ねてきた女性を指す言葉としての印象を強くし、
誤った使われ方をしているのです。
姥桜(うばざくら)の本来の意味と言うのは、
歳を重ねても色香があり若々しく美しい状態を保っている女性を指しており、
謙遜して使う言葉でも、自分を卑下するための言葉でも、ネガティブな言葉でもなく、
とびっきりの褒め言葉です。そう、本来の意味は真逆。
先日、夢宵桜色をご紹介する際に山桜について触れましたが、
今回の姥桜(うばざくら)は山桜とは異なり、葉より先に花を咲かせる種の桜のこと。
この、葉がなくても美しい女性の様子を「歯がなくても(老いても)美しい」とも言い換えられるということで、
「年齢を重ねても美しい女性」を表す言葉となりました。
ですから、「あの女性、姥桜(うばざくら)ね」と言うのは「あの女性、素敵ね」という褒め言葉であり、
「私は姥桜(うばざくら)だから」と言えば「私って艶やかで美しいから」と言っていることになり、
決してネガティブな言葉ではありません。
姥桜(うばざくら)という言葉、見た目だけで判断されてしまって悔しい想いをしていることだろう、とわたくし、少しだけ気の毒に思っております。
姥桜(うばざくら)、自分は正しい意味を知っていても相手が間違った意味で覚えていれば、
コミュニケーションが少々ややこしいことになってしまう可能性のある言葉でもあります。
もし、お使いになられる際にはご注意あれ。
私は自分を卑下するような言葉や、過剰な謙遜は好きではありません。
自分が発することはもちろんなのだけれど、
自分以外の誰かが発することにも違和感を感じてしまうのです。
自分に自信があるわけではないし、下を向いてしまうこともあるのだけれど、
同じ時間を過ごすなら出来るだけ、るんっと前を向いていたいと思うし、
下を向いてしまったのなら、また前を向けばいい、と思っています。
だけれども、人にチカラを借りるほどではないけれど自分ひとりでは力が出ない、
ということも時にはあるわけで。
だからでしょうか、目には見えない言の葉たちにチカラを借りるような気持ちで
前向きな言葉に触れていたいと思ってしまうのかもしれません。
さ、本日もキラッとまいりましょうか。
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