待ち合わせの時間まで、駅の構内にあるバラエティーショップ内をのぞくことにした。
どこに何が置いてあるのか、把握できそうでいて把握できていない状況が、
人の心の中に在るワクワク感を、絶妙なタッチで刺激するのだろう。
完全にお店の中が分からなければ、ワクワクではなく警戒心が立ち上がるけれど、
「分かるのに分からない」、この塩梅に、私は今日もまんまと乗せられて、店内に足を踏み入れているのである。
そのような野暮なことを頭の中に巡らせながら、店内のあちらこちらに視線を泳がせた。
店内の奥まで進むと、その一角を占めているジグソーパズルに目が留まった。
雑貨を扱うお店でよく目にするジグソーパズルだけれども、
多くの新商品が登場しても無くならず在り続けているところを見ると、
ジグソーパズルの愛好家は、私が思うよりも多くいらっしゃるのだろうと思う。
子どもの頃に、実年齢にしては少々難易度が高いそれを作り上げたことを機に、
私の中で何かが満たされたのか、何かを悟ってしまったのか、
それっきり手を伸ばす機会がなくなったジグソーパズルを懐かしく思いながら、今もこうしてお店の一角を占めるそれらを眺めた。
難易度によって、描かれている絵柄、図柄も様々だけれども、
アーティスティックなものが増えたように感じられるのは、ジグソーパズルも静かに進化し続けているということなのかもしれない。
そしてふと、どうしてジグソー?といつもの癖がふつふつと湧き上がってきた。
ジグソーは英語で「ノコギリ(糸のこ、電動のこぎり)」を指しているのだけれど、
私の頭の中で、「ノコギリ」と「パズル」がどうしても結びつかず、その場で軽く調べてみることにした。
そこには、このような内容のことが書かれていた。
ロンドンにいた、ある地図職人は、子どもたちに、遊びながら様々なことを学んで欲しいと考え、
木の板を各国の形に忠実にカットしたパーツを作ったのだそう。
これは、今で言うところの知育玩具で、
各国を模ったパーツを組み合わせると地図を作ることができるというものだった。
そして、このパーツを作る際に使われた道具が、ノコギリ(糸のこ)だったそうで、
ノコギリ(糸のこ)で作られたパズルという意味で「ジグソーパズル」と名付けられ、これが世の中に広まったというのだ。
ジグソーパズルが、娯楽アイテム生まれではなく、知育玩具生まれだったとは、予想外の事実である。
私はイギリスに住んでいたことがあるけれど、この話題に触れる機会は無いまま、随分と時は過ぎ、
こうして、ふらりと立ち寄ったバラエティーショップ内で、真相を知ることとなった。
知る機会があっても、知らぬまま通り過ぎることも、意外と多いのだろうと思いながら、手に取っていたジグソーパズルの箱を棚に戻した。
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