今年は、お正月感に包まれている街中に出る機会があった。
門松や注連縄、餅花や振る舞い酒など、目でも楽しむことができたのだけれど、
目の前には、子どもの頃に感じていたお正月感とは別のものが広がっていたように思う。
ただ変わらないのは、お年玉を何に使おうか、どれに使おうかと、目の前の商品を真剣な眼差しで眺める幼き子ども達の顔だろうか。
子ども達に人気があるお店の前を通り過ぎながら、そのようなことを思った。
厳かさではなく、賑やかさ溢れる街中を堪能しつつ、ふらりと、あるお店に足を踏み入れた。
特に購入する予定はなかったのだけれど、店内の商品を見て回りながら、この手のものを贈り物にするのも良さそうだなどと楽しんでいた。
すると、店員の目には、贈り物を探しているように映ったのか、
店内の商品を矢継ぎ早に紹介され、特に購入する予定はないのだと言いそびれてしまった。
言いそびれついでに、しばらくの間、営業トークを聴いていたのだけれど、
これは男性なんかへのプレゼントにもいいですよ、こちらは女性なんかにも人気です、これと組み合わせると年配の方なんかにもいいですよ、と続いた。
それを聴き終えたところで「もう少し、考えてみます」と購入する気があったかのような子芝居をする裏で、
「なんか」という表現は、気を付けて使わなくては。と思いながらお店をあとにした。
丁寧な接客だったこともあり、嫌な気分になった訳ではないし、本人の口癖なのだろうと思う。
ただ、「なんか」という表現には、その物や人を否定したり、軽んじるような印象を聴いた人に与えることがある。
使いどころやタイミングを誤れば、今の時代、何かしらのハラスメントとして映ることもあるのではないだろうか。
言葉は発した瞬間から、本人の意思とは関係ないところで、良くも悪くも一人歩きをし始める。
特別な言葉を使わなくてはいけない、常にお作法を意識しなくてはいけない、ということではなく、
言葉は、ほんの少し意識するだけで、相手の気持ちを和ませる力があるのだ。
今回は、特別嫌な思いをしたという訳ではないのだけれど、
自分の口癖は、自分では気が付き難いため、セルフチェックをする機会となった。
相手が子どもであろうが、大人であろうか、何気ない関わり合いの中にも“何かしら”ということなのかもしれない。
どのようなシチュエーションで発する言葉であっても、出来ることなら根っこの部分には、温かいものを忍ばせておきたいものだ。
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