その日は空き時間を使って、溜めこんでしまっていた資料に目を通すことにした。
興味がある内容であれば時間が経つのも忘れて読みすすめられるのだけれど、そうではないものばかりを着々と溜め込んでしまっていたため、早々に飽きてしまったのだ。
トレーの上に転がっている目薬を点してみたり、飲み物を変えてみたりと手を尽くしたのだけれど、ペンを指先で回してしまいそうになったところで潔く日を改めることにした。
毎日ベストコンディションではいられない。
過去には、そう在りたいとか、そう在らなくてはいけないと思ったこともあったけれど、今はそう出来るときの自分、そう出来ないときの自分の双方と上手く付き合えるようになったように思う。
もちろん「完璧に」ではなく、「以前の私と比べると」というレベルではあるのだけれど。
私のことはさておき、その日、資料の内容から大きく脱線した先で「茶碗を投げば綿で抱えよ」という言葉に出会った。
今回は、そのようなお話を少しと思っております。
お時間ありましたらチラリとのぞいていって下さいませ。
「茶碗を投げば綿で抱えよ」と聞いて私の脳裏に浮かんだ光景は、
ボールに見立てたお茶碗とグローブに見立てた綿を使って行うキャッチボールである。
出来ないということはないだろうと思ったけれど、合っている気が全くしない私は、早々にその意味をのぞくことにした。
この言葉は、投げられたお茶碗は、綿で受け止めれば割れることはなく、大事にも至らないという光景に、人との関わり方が重ね合わされていた。
関わっている相手がお茶碗を投げつけるかのように怒りをぶつけてきたり、強い態度に出てきたら、
綿で出来た柔らかい座布団や毛布のように、柔らかい気持ちで相手の気持ちや態度を受け止めれば、
相手の怒りや行き場のない思いを沈めることができ、ものごとが丸く収まるという例えなのだそう。
確かに、お茶碗を投げつけ合ってしまえば、お茶碗が割れるだけでなく、傷をお互いに負うこともあるけれど、どちらかがフワリと受け止めれば、そこから舵を切り直すことも可能である。
日本にある風呂敷文化というものがあるけれど、「茶碗を投げば綿で抱えよ」はここにも繋がるように思う。
以前、幸せのレシピ集内でも触れているのだけれど、
もともと「包む」という言葉は、自分の感情を露わにせずに相手を気遣うための言葉である。
「感情は露わにするよりも、ほんの少し包んだほうが、人間関係が和やかになる」という、先人たちからのメッセージも含まれており、「つつましい」という言葉にも繋がっている。
相手を気遣う言葉やことわざが多数あるなんて、素敵ではないか。
そして、先日発表の日を迎えた新元号の「令和」にも繋がるように思う。
「令和」は「Beautiful Harmony(美しい調和)」という英訳で統一されるとのこと。
ここにも、先人たちの時代から大切にしてきたものが、しっかりと盛り込まれているような。
そのようなことを感じた「茶碗を投げば綿で抱えよ」である。
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