先日の節分の日。
こんな声では鬼も福も無いのではないだろうかと思うような小声で、「鬼は外、福は内」と呟きながら豆を撒いた。
自分の中の鬼退治と福の呼び込みの意味での、自分目掛けて「鬼は外、福は内」も忘れずに。
そのような話を知人にしたところ、最近の幼稚園の中には鬼が登場しない豆まきをしている園があるという話題があがった。
ん?赤鬼やら青鬼やらが「がぉー」といった感じで迫ってこない節分なの?と、状況を掴めずにいると、そのようなスタンダードな豆まきを行う園もあるけれど、
中には、自分自身の中にある、直したいところや弱いと思っているところを「鬼」として、ダンボールや模造紙に描かれた鬼目掛けて、豆にみたてた紙のボールなどを投げつける豆まきを行う園もあるというのだ。
豆まきには無病息災だけでなく自分の中に棲む鬼退治も含まれているため、正しい豆まきの在り方ではあるのだけれど、様々なことに配慮しなくてはいけないご時世の表れでもあるような気がして、リアクションに困ってしまった。
食べ物を粗末に扱わないということを教えなくてはいけないから、実物の豆は使わない。
人に物を投げつけてはいけないということを教えなくてはいけないから、鬼はダンボール。
鬼の恐怖で子どもたちが夜に眠れなくなるといけないから、鬼にリアルさは不要。
もちろん、理由はこのようなものばかりではなく、衛生面や手間、その他の諸事情を考慮したものではあるのだけれど、色々と考えさせられる豆まきの光景である。
ちなみに現代版の豆まきを楽しんだ子どもたちが思う自分の中の鬼とは、泣き虫をやめたいとか、苦手なお野菜を食べられないところを直したいといった子どもらしいものなのだとか。
それを知って、自分のことを素直に見つめながらの節分を笑顔で楽しめたのならそれが一番か、と思も思った。
そのようなことを思いながら今年の節分を思い返していたのだけれど、今年使用した節分の豆には、縁起物の宝船が描かれた紙が付いていた。
そこには節分豆のお話と共に、古より立春の前夜(節分の夜)に宝船を描いた紙を枕の下において眠ると吉兆の夢を見ることができるという言い伝えがあると書き添えられていた。
いかにも、この宝船の絵をお使いくださいと言わんばかりの添えられ方をしていたこともあり、生まれて初めて立春前夜に宝船の絵を枕の下に忍ばせ、どのような吉兆の夢を見ることができるのだろうかと、ワクワクしながら眠りについた。
目覚ましが鳴る直前まで見ていた夢は、ここのところ何年も会えずにいる方々が出てくる賑やかな夢だった。
みんな、それなりに色々とあるのかもしれないけれど、各々の場所で元気に楽しく過ごしているという知らせだったのではないかと思いながら体を起こした。
この夢のどの辺りが吉兆に繋がるのか、解釈し難しではあるのだけれど、私にとっては十分にいい夢だったように思う。
来年からは、豆まきだけでなく、宝船の絵で吉兆の夢を見ることも節分の楽しみに加えてみようかと思いながら宝船の紙を片付けた節分あけである。
今年の節分は過ぎてしまいましたけれど、
来年の節分のときには、豆まきや鰯、恵方巻だけでなく、「宝船の絵を枕の下に忍ばせて吉兆夢を見る」という楽しみも加えてみてはいかがでしょうか。
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