街中を歩いていると、子どもたちの姿が目に入る。
彼らの足取りは軽く、年が明け、大人たちが一足先に通常の生活へと引き戻された中、
子どもたちだけは、まだお正月気分と冬休みを楽しんでいるように見えた。
少し羨ましくも思いながら、休みはなくとも大人には大人の楽しみがあるのだ、と
少しばかり斜に構えつつ、私は、ある雑貨店へ足を踏み入れた。
店内を軽く二周ほどして、お目当ての物を手にレジへと向かった。
アンティーク風なビジュアルのレジスターに埋め込まれた液晶パネルに金額が写し出される。
そのアンバランスさに小さく心踊らされながらお財布からお金を取り出した。
店員から受け取るおつりに抱いた違和感の原因を探りつつ品物を受け取り、雑貨店を後にした。
この日、冬の中休みの様な気候で、どこかからか桜の香りでもしてくるんじゃないかと思う程暖かく、
日差しも柔らかで歩いて移動するにはちょうどよかった。
先程の違和感の原因を突き止められぬまま、次の目的地の書店へと入る。
この日はお目当ての物があり、真っ直ぐその場所へ向かった。
棚の端にひっそりと並べられていたそれらを一冊ずつ引き出し、レジへと向かった。
おつりを受け取る時、先程と同じ違和感を抱くのと同時に違和感の正体に辿り着いた。
「お年玉」だ。
雑貨店でも書店でも受け取った野口英世の千円紙幣。
それは、普段はあまり目にしない三つ折りの折り目がつけられていたのだ。
そう、ポチ袋に入れられていたことが伺える折り目。
私がおつりで手にしたお札は、お年玉として誰かの手に渡ったものが巡ってきたお札だったのだ。
雑貨店はわりと大人向けのお店だったので、高校生か大学生がお年玉を使ってお買い物をしたのかもしれない。
書店では小学生なのか、中学生なのか、高校生なのか定かではないのだけれど、
ここでも、お正月にいただいたお年玉で、子どもたちがお買い物をしたのかもしれない。
彼らは年の初めにどんなワクワク感を手にしたのだろう。
そのような事を思いながら受け取ったおつりをお財布にしまった。
お年玉のルーツをご存知だろうか。
お正月は、年神様(歳神様)が新しい一年の魂を与えに来てくださる、と言われている。
その頂いた魂、「年魂(としだま)」を一家の主人が、家族や周りに分け与えるというものがルーツなのです。
昔のお年玉はお餅だったので、皆がお年玉をいただいていたのですが、いつの頃からか、お年玉がお金に変わり、
皆がいただくものではなく子どもがいただくものになったようです。
誰かが大切な子どもの為に贈ったお年玉のお札が、巡り巡って私の元にやってきた。
私がお年玉を頂いたわけではないのだけれど、
こんなところで、お正月気分を味わえるなんて思っていなかった私は、少しばかり、心がぽかぽかした気がした。
そして、子供のころの私は、年の初めにどんなワクワク感を手にしたかしら?
そのようなことを思いながら岐路についた。