「あれ?ん?あれー?違う?」
友人が目の前でそう呟きながら頭を右へ左へと傾けながら手帳に何かを記していた。
私はというと、友人が淹れてくれた美味しい紅茶をゆっくりと味わいながら
横に添えられていたキャラメルコーティングされたピーカンナッツを摘まんでいた。
私が何度目かのカリッという音を響かせたとき、
スッと顔をあげた友人が、「ねぇ、シミュレーション?シュミレーション?」と言った。
(突然、なに?)と思いながら“シミュレーション”と答えると、
「そうだよね」と安堵の表情を浮かべた。
何も考えずとも正しく書くことが出来ている漢字や発することが出来ている言葉が、
ふと意識した途端に、どちらが正しいのか、何が正しいのか、
自分の答えに自信がなくなるということ、誰もが経験したことがあると思うのだ。
私は、このような状況を、
意思を持っている言の葉が時々仕掛けてくる悪戯だと思っている。
友人はその言の葉の悪戯にはまってしまったようだった。
カタカナ語の場合は、英語表記を思い浮かべてみれば割とすぐに解決することもある。
だけれども、今回のように「シミュレーション」だろうか?「シュミレーション」だろうか?と
カタカナ表記を眺めていると、まるで七変化するカメレオンの如く、
文字がその場の空気に馴染み迷ってしまうということはよくあるものだ。
実は私も学生の頃に友人のように、
シミュレーションとシュミレーションの悪戯にはまってしまったことがあった。
知っていることは確実なのに分からなくなってしまったときの違和感と焦りと言ったらない。
その時は、「その言葉に迷ったら趣味はダメって覚えるとよい」と
当時の友人が私を言の葉の悪戯から救い出してくれたのだ。
(○)シミュレーションと(×)シュミレーション
様々なところで目にする覚え方のようなのだけれども、
当時の私にとっては友人のこの言葉が救世主のようだった。
この日以降、私はこの言葉の悪戯に惑わされることはなくなった。
そして月が流れ、あの当時の私と同じ悪戯に遭っている友人が目の前にいた。
もちろん私は「趣味はダメ」だと、言の葉の悪戯を交わす呪文を伝えた。
あの時の私も、この友人のように清々しい表情をしていたに違いない。
目には目をではないのだけれど、言の葉には言の葉を。といったところだろうか。
言葉との戯れ方もコミュニケーションの取り方もひとつとは限らない。
これからも自分らしく大好きな言の葉とともに在りたいと思う、ある日の出来事であった。