その日は、夏目漱石 (以下、漱石さん)の著書のことで調べものをしており、久しぶりに彼の文章に触れた。
彼の代表作品は幾度か読む機会があったけれど、それらの内容は既に、おぼろげな記憶と化してしまっている。
だからこうして時々、作品を読むこと以外からのアプローチで触れることになっているのだろうかと、こじつけにも近いことを思いながら、必要なことを淡々と拾い上げて書き留めた。
そして、、夏目漱石と聞いて私が思い出すのは、こちらでも過去に登場させたことがある、無類の漱石好きの友人である。
本好きを全否定し、彼の作品の内容は覚えていないと笑い、私はただ彼の思考回路が知りたいだけだと言って、私にマニアックなエピソードの数々を仕込んだ女性だ。
そして、おかげさまでと言ってもよいものかと少し躊躇うのだけれど、私も漱石さんの作品の内容以外の事に意識が飛んでしまい、このような有様である。
(※漱石さんをマニアックな視点で知ってみたいという方は、下記の過去記事をどうぞ。)
そして、その日の私の目に留まったのは、彼の作中に登場した「ぐうの音もでなかった」という言葉だ。
意味は分かる。
反論できないとき、言葉に詰まってしまったとき、返す言葉がないようなときに使われる言葉だ。
しかし、そもそも「ぐうって何ぞや?」という話。
もしやこれも、造語や当て字を生み出して遊んでいた漱石さんの言葉遊びのひとつでは?と思い調べものそっちのけで「ぐう」の正体を追った。
「ぐうの音も出ない」に使われている「ぐう」は、息が詰まってしまった時にでる声をそのまま当てた言葉で、随分と古くから使われ続けている言葉なのだそう。
私の期待が思いの外大きかったのか、随分と古くから存在していたと分かったときには、
できれば漱石さんの遊び心であって欲しかったとチラリと思ってしまったのだけれど、
同じ状況を表現できる言葉が多数あった中から、この言葉を選んだ漱石さんは、やはり言葉のセンスに長けていたのではないだろうかと思った。
と同時に、遠い日に友人が私に仕込んだのは、マニアックな漱石エピソードではなく、漱石さんをマニアックに楽しむ方法だったのでは、と感じた午後である。
日常会話に登場する機会はそう多くはない「ぐうの音もでない」という言葉ですが、
触れる機会がありましたらプラスαのエピソードと共に、ちらりと思い出していただけましたら幸いです。
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