キノコがたっぷりと入ったアヒージョを食べたくなり、キノコを買いに出かけた。
ひと通りのキノコをカゴに入れ、最後のシメジを視界に入れたときだった。
先にその場に来ていた親子連れの子どもが、あるシメジパックの側面を指さし、「ママ、このシメジ寒そう」と言った。
そのような会話に慣れているのだと思う。
母親は、何となく視線をシメジに向けて「本当だ、そうね」と言いながら小さな彼の手をひき、その場を去った。
私は、「シメジが寒そう」とは?と、彼の発言が気になり、彼が指さしていたシメジパックを手にとり、目線の高さまで持ち上げて中を覗いた。
しかし、そのパックに変わった所は見当たず、一般的なシメジであった。
シメジが寒そう……と繰り返しながら10秒ほどしてからだろうか、私の視界に、寒そうなシメジが現れた。
シメジのカサの部分を頭、柄というのか軸と言えば良いのか、その部分を胴体から脚だとイメージしてみたときに、
脚を膝から折り曲げて抱え込み、体を丸めて暖を取るかのような体勢に見えるシメジが2本あった。
赤と白のボーダー柄がトレードマークのウォーリーを探して楽しむ『ウォーリーを探せ!』よりも難易度が高い「寒そうなシメジを探せ」であるように思った。
このような柔軟な感性に出会うと、素敵だなと感じる。
今回はシメジに対して発動した感性だけれども、きっと、日々に起こる様々な出来事に対しても、
そのような柔軟な感性で見ることができたなら、対応することができたなら、
何が起こっても自分の豊かさに変えていくことができるように思うのだ。
歳を重ねる度に、自分の日常スタイルというものが出来上がり、同じような日々を繰り返しているだけのように感じることがある。
それ自体は、とても自然なことで、ダメなことでも悪いことでもないと理解しつつも、
「何だか、つまらない」と感じてしまう気持ちとの折り合いの付け方に惑わされる、というようなことも。
無理に、折り合いを付けようとすると自分の日常に魅力を感じられなくなってしまうこともあるため、
そのような時には、小さな「非日常」を自分で作り出して楽しむことが、自分が思う以上に効果を発揮してくれることがある。
普段しないことをしてみたり、普段は選ばないものを選んでトライしてみたり、
いつもの手順や、いつもの道順を変えてみることも小さいけれど「非日常」のひとつである。
仮にそこで、小さな失敗が起きたとしても、それも含めて「非日常」という名のイベントである。
そして、その中には、小さな子どもの感性や、モノの見方にも見習うべきことがある、と、
その日のシメジ少年のような感性に触れる機会があると、改めて思うのだ。
目の前の見慣れた景色を、自分以外の誰かの視点を借りて改めて眺めてみることで、
同じような日々の中に新しい色が加わり、日常と共に自分自身もアップデートされていく。
大きな非日常にだけでなく、小さな非日常にもトキメクことができるような、柔らかい気持ちで過ごしていきたいものである。
そのようなことを思いながら、その日は「寒そうなシメジ」をキッチンで調理した。
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