道草に時間を費やしすぎてしまい、焦り気味に歩いていたときのことだ。
突然、横道から猫が飛び出してきて私の前でゴロンと転がった。
その猫は、「ほら、撫でたいんでしょ。ほら、お好きにどうぞ。」と言わんばかりの視線を向けながら、豪快にお腹を見せて体をくねらせた。
どうして、今なの?
そう思う時点でノックアウトされたも同然なのだけれど、私は時間を確認し「少しだけだからね」と猫に言ってお腹をワシャワシャと撫でた。
少しだけと宣言しておきながら猫の術中に嵌まり、ついでに顎の辺りも、フェイシャルマッサージもと、ひと通りご奉仕させていただいていると、猫は、すくっと立ち上がり少し先の陽だまりへと移動した。
陽だまりの中に転がり直した猫は、もう一度視線を向けてくれたけれど、私には、それ以上の道草タイムが残っておらず、後ろ髪を引かれる思いでその場を後にした。
猫に限らず、動物は自分にとって快適な場所をよく知っている。
多分私は、大自然の中に放り出されたら彼らのようには生きていけないように思う。
自分にとって何が心地よいのか、何がベストなのか。
分かっているようでいて自分の真の声は、思いのほか分かっていないことも多い。
彼らは本当に逞しい……、そう思って日向ぼっこ中の猫を振り返ると、猫は次のターゲットを術中に嵌め、全身マッサージを受けているところだった。
やはり、色々な意味で逞しい……。その日は、そう思いながら先を急いだ。
そう言えば、日向ぼっこという、なかなか可愛らしい響きの言葉がある。
これは「日光を浴びて、惚けている(ほうけている)」という意味の、「日向惚けあり(ひなたほうけあり)」という言葉が変化して「ひなたぼっこ」と言うようになったと言われている。
ここで使われている「惚ける」は、遊び惚けるという言葉に使われている「惚ける」なので、
日光に夢中になるとか、日光を浴びてぼーっとしている様子を表しており、漢字で記すならば「日向惚っこ」と記すそうだ。
理解できる語源や表記なのだけれど、私の脳内で「日向惚っこ」という言葉は、人や動物たちが陽だまりを恋い慕って放心状態になる様子や、陽だまりに惚れた様子をイメージさせる言葉である。
その日出会ったような猫の姿や、公園のベンチで気持ちよさそうに目を閉じて空を見上げている人の姿を目にした日は特に、そう思わせられる「日向惚っこ」だ。
語源や表記にもしっくりくるもの、こないもの、色々あって面白い。
電車に揺られながら、そのようなことを思った日。
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