幸せのレシピ集

cawaiiとみんなでつくる幸せのレシピ集。皆様の毎日に幸せや歓びや感動が溢れますように。

ベジハンドで簡単セルフチェック。 

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ドラッグストアで買い物をした。

レジ横のポップには、“現代人は栄養不足です”とあった。

ここ最近、この文言を、割とよく目にするような気がしている。

何となく目にした程度であるびも関わらず、この文言が記憶に残っているのは、

カロリー摂取と栄養摂取は異なるものだということを、ズバッと指摘されたような気分になったからではないかと思っている。

そして、最近、この文言と同じくらい目にしている“大人のための食育”という言葉。

栄養は十分足りていると思い込んでいる私たちが、

今の自分の食生活を再確認する機会になるように思う。

再確認の内容は、栄養の偏りを正したり、成人病と呼ばれるも諸々を予防するために出来ることを知ったり、

日々をより健やかに過ごすために意識する自分自身のポイントをであったりと、人の数だけあるけれど、

やはりポイントとなるのは野菜なのだそう。

バランスに気を付けていても、自分の癖で栄養が偏っていたり、

ヘルシーを気にするあまり栄養不足に陥っていたりと、

栄養素の偏りが顕著なので、食品メーカーは、大人のための食育と題して講座などを開き、

野菜を飽きずに摂ることができるようなレシピや料理法を提案しているという。

私は、偶然、そのような話を見聞きしたのだけれど、その中で、興味をもったのは「ベジハンド」という言葉だった。

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これは、1食につき摂取すると良いと言われている野菜の量を見極めることができる方法のことで、

トマトケチャップや野菜ジュースなどでお馴染みのカゴメが提案しているという。

私たちが、片手に乗せることができる野菜の量は、約60グラムなのだそう。

1日に必要な野菜の摂取量は約350グラムと言われているので、片手×6杯分の野菜を食べればクリアとなる。

これを更に1食分に分けると、1食につき必要な野菜の摂取量は、片手×2杯分の野菜となる。

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とてもざっくりとした量り方だけれど、自分が食べた野菜の量や、

これから食べようとしている野菜の量を簡単に把握できる良い方法ではないだろうか。

私は、意識して野菜をたっぷりと口にするようにしていたため、

思うよりも多くの量の野菜を摂れているものだと思っていたのだけれど、

このベジハンドで食生活を振り返ってみると、摂った気分になっていたことと、

1食でたっぷりの野菜を摂ったとしても、片手×6杯分の野菜を1食で摂ることは難しいということに気付かされる結果となった。

目には見えなかった、必要最低限の野菜摂取量が、ベジハンドという形で意識できるようになり、

現在は、左手を器に見立てて「うーん、ゴールは遠い」そう思いつつ、

昨日よりも、お野菜をひと口多めに!という気持ちで、秋の味覚を楽しんでいる。

野菜の摂取量が気になったときには、ベジハンドで簡単セルフチェックをしてみてはいいかがでしょうか。

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挨拶をしてはいけないルール。

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宅配ボックスに届けられている宅配物を受け取るためにエレベーターで1階まで下りた。

扉が開くと、ランドセルを背負った小学生がいたため、「こんにちは」と声をかけた。

私の声が小さかったのか返事は聞けぬまま、小学生はエレベーターに乗り込んだ。

また別の日の出来事である。

外出から戻るとエレベーターホールで、小学生らしき子どもがエレベーターを待っていた。

お使いだろうか。

郵便物や新聞を胸に抱きかかえていた。

私はひと言、「こんばんは」と言った。

今度は、相手にも聞こえるくらいの音量で発した。

しかし、私の声はシンとしたエレベーターホールに、響いただけで返事は聞けなかった。

もしかして、この辺りの小学校でも「知らない人に挨拶をしてはいけない」という教育が常識化しているのだろうか。

そのような事が脳裏を過ったため、何となくではあったけれど、

その子どもが乗ろうとしているエレベーターに同乗することに躊躇いを感じ、

「お先にどうぞ」と言って、子どもを先にエレベーターに乗せた。

数年前に取り挙げられたニュースにこのようなものある。

「知らない人に挨拶をされたら逃げるように教えているため、

マンション内での挨拶が禁止して欲しい」という申し出が子を持つ親からあり、

マンション内での挨拶が禁止になったというニュースだ。

その後、「知らない人には挨拶をしてはいけない」と子どもに教える学校や親も増えていると聞く。

もちろん、このような申し出があった背景には、悲しい事件や、

安全だとは言い切ることができない社会状況があるため、常識だ、非常識だなどと一言では片付けられないのだけれど、

子どもも大人も生き難い世の中だなと思う。

返事が返ってこないという経験が数回続いた私は、

この辺りの小学校でも「知らない人に挨拶をしてはいけない」というルールがあるのだろうという推測のもと、

子どもを無駄に怯えさせたくはないし、私自身も不審者として扱われたくないという気持ちもあり、

マンション内で子どもに出くわしても、声をかけないように心掛ける。という妙な生活を送っている。

このようなルールが生まれたことも意図も十分に理解できるのだけれど、

このような心掛けは、非常に生き難い。

同じエネルギーを使うなら、心が温かくなるような心掛けや心配りに使いたい。

そう思いながら、それぞれの立場や状況を思うと、これも仕方無いことなのだろう、とも。

郵便受けに届いた郵便物を取りに行くだけなのに、

小学生が居ませんように……。そう思うようになっている自分を複雑な思いで眺める午後である。

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秋思とノスタルジアと牛乳と。

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指先が、パソコンのキーボードを温め始めたため、気分転換に外出することにした。

小さなバッグに必要最小限のものを入れていたのだけれど、敢えてスマートフォンは持っていかないと決め、取り出した。

ただ外の空気を吸うためだけの外出、そう思って玄関ドアを押し開けただけだというのに、

気持ちが随分と軽やかに感じられて、束の間の解放感を全身に浴びた。

行き先を決めずに外出することが苦手だという方もいらっしゃるけれど、

私はこの感覚がとても好きで、私にとっては、贅沢な時間のひとつである。

時々降る雨が秋を深めているのか、また少し、街中が秋らしくなっていた。

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そして、この時季は、春愁秋思(しゅんしゅうしゅうし)という言葉を思い出す。

春愁秋思(しゅんしゅうしゅうし)の春愁は、春に感じる憂鬱や物悲しさを、秋思は秋に感じる淋しさを表しており、

心地よい気候のときに、何となく気が塞いでしまったり、淋しい気持ちになること表す言葉である。

文字通り、春と秋の心の揺らぎが挙げられているのだけれど、

私がこの言葉を思い出すのは、いつもこの時季、秋が深まる頃である。

秋は、人の心の奥に眠っている何かを、五感を通してそっと刺激してくる。

そして、自分は、人だけではなく、様々なモノゴトと影響し合っているのだと、何となく実感する季節でもある。

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そう言えば、特段、秋の言葉という訳ではないけれど、

この時季は、故郷や過去の様々を懐かしく感じる様子を表す、ノスタルジックという言葉を目にする機会も増えるように思う。

風情があり、洒落た風な言葉の響きが使用される機会が多い理由ではないかと思っているのだけれど、

もとの「ノスタルジア」という言葉は、スイスの医学生によって作られた造語であり、

帰郷と心の痛みを表す2つの言葉が組み合わされているという。

どうして、帰郷と心の痛みなのか。

「ふるさとへ帰りたいけれど、もう、あの地へは帰ることはできないかもしれない」という、患者さんの心情を指すもので、

もとは、現在のような使われ方ではなく、心の病の名としても使われていたそうだ。

初めてこの語源を、ある方に教えていただいたとき、

医学生らしい視点から生まれた言葉だという印象を抱いたこともあり、今でも何となく記憶に残っている。

そのような事を脳内に巡らせながらも、次の瞬間には「牛乳が切れていた様な……」と、現実に引き戻されるいつもの散歩道だ。

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正しさの基準。

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デスクの隅で、すっかり冷めてしまっているホットレモンを飲み干した。

溶けきれずに底に溜まっていたレモン風味のハチミツの甘さが、口の中を占領した。

口の中をサッパリさせたくて、2杯目のホットレモンを作りにキッチンへ向かうと、

シンクに向かうような状態で脱ぎ揃えられているバブーシュが目に入った。

家の中では裸足で過ごすことが多い私は、至る所にバブーシュを脱ぎ捨てる癖があるのだけれど、

前回は、ここで脱いだのか。でもどうして、ここで。

そのような思いで、それを横目で捉えたけれど、納得できるような答えは見つからず、見て見ぬふりをして2杯目を作った。

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ふと、昨夜、知人から受け取ったメッセージを思い出した。

役所へ行き、いくつかの代理手続きを行っていたそうなのだけれども、

続柄に関することを質問したときに、「つづきがら(続柄)」と発すると、役所の方に「ぞくがら(続柄)は~」と言い替えられたと言うのだ。

知人は、「別にどちらでも構わないけれど」と前置きをした上で、

正しくは「つづきがら」だと思うけれど、このようなシチュエーションでは正解ではなく、大多数の意見を使った方がいいのだろうか?

正解とは何のことだろう?柊希なら、このようなときには、どちらを使う?といった内容のメッセージだった。

このような文章にしてしまうと、真面目なやり取りのように聞こえてしまうけれど、

やり取りそのものは、世間話のひとつという程度の軽やかなものだった。

「続柄」という単語を声に出す場面は、そう多くはないため間違いに気が付きにくい単語なのだけれど、

正しくは「つづきがら」と読み、「ぞくがら」と読むのは誤りである。

私自身も、これを「ぞくがら」と読んでいた時期があるのだけれど、

指摘されたことをきっかけに、現在は、頭の中で「つづきがら」と読んでいる。

一説によると、正しい表記は「続き柄」なのだけれど、

役所の書類などに「続柄」と表記されたことがきっかけとなり、

「ぞくがら」という俗称のようなものが浸透してしまったのではないか。という見方もあるという。

現在は、「続柄」は「ぞくがら」と、「続き柄」と記されている際には「つづきがら」と呼び分けることもあるようなのだけれど、

それでも、もとを辿れば、正しくは「つづきがら」である。

私は、今回の知人のように「続柄」という言葉を声に出して何を尋ねたり、説明したりといった機会に遭遇していないけれど、

お互いに違和感を覚えないように、「つづきがら」と言った後に、

さり気無く「ぞくがら」という読み方も付け加えるという、少々ズルい手を使うだろう、と思う。

「1+1=2」というような答えは、分かり易くて、共有もしやすいのだけれど、一筋縄ではいかぬ正解も存在する。

正しさの基準、そのようなことを思いながら、温かいホットレモンを口に運んだ日。

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紅茶の日の背景を、紅茶とともにいかがでしょうか。

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少し肌寒くなってきたこともあり、温かい紅茶を淹れることにした。

私は紅茶好きなのだけれど、先月まで11月1日が紅茶の日であることを知らなかった。

しかも、そうだと知ったときも、語呂合わせのような記念日設定が多い昨今だもの。

失礼ながら、この日付に大した意味など無いのだろうと思い込み、深追いすることなく過ごしていた。

しかし、紅茶専門店へ足を運ぶ度に、間近に迫っている年に一度の紅茶の日を待ち侘びているように見える企画が多数、目に留まったものだから、

その背景を、チラリとのぞいてみたのだ。

今回は、そのようなお話を少し、と思っております。

ご興味ありましたら、身近なドリンクメニューのひとつである“紅茶”の背景を一緒にのぞいてみませんか。

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本日11月1日を“紅茶の日”に制定したのは日本紅茶協会で、その始まりは1983年だという。

やはり、制定されてから日の浅い記念日だったかと思ったのも束の間。

紅茶の日は、しっかりとしたエピソードが元になって制定されたことが分かった。

時は江戸時代まで遡るのだけれども、当時の日本は、簡単に外国へ行くことができず、

また、外国から入ってくることも難しい鎖国状態だった。

そのような国の状態の中、ある船乗りと船員たちは遭難し、ロシア領の島に漂着したのだそう。

彼らは、どうにかして日本へ帰国しようと様々な手段を試みたようなのだけれど、日本は、鎖国真っ只中。

日本は遭難した彼らの受け入れを拒否したといいます。

彼らは最終的に、日本に帰国することができたけれど、

帰国できたときには、遭難から10年前後の年月が流れていたのだそう。

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その、約10年近い年月の間の生活に関しては、

一筋縄ではいかないことの連続だったように想像するのだけれど、

女帝・エカチェリーナ2世に直接帰国の許可をもらうべく、ロシアを横断しながら

異国の地の人々の信頼を築き上げながら、謁見の機会を諦めずにいたというのだ。

運よく、彼女との謁見も帰国も許可され、帰国の準備をはじめたそうなのだけれど、

帰国前の彼らは、彼女からお茶会に招かれたという。

このときのお茶会が、日本人が初めて、外国の正式なお茶会で紅茶をいただいたことから、

お茶会が開かれた11月1日を紅茶の日に定めたのだそう。

遭難から約10年近い年月を経た11月1日に、特別な場所で口にした紅茶が、

当時の彼らにとって、どのような味だったのを知る術はないのだけれど、

ほっとできる一杯だったのではないだろうかと想像したりする。

今日は、ほっと一息のお供に“紅茶”を召し上がってみてはいかがでしょうか。

その時には、今回のお話をちらりと思い出していただけましたら幸いです。

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“いつの間にか改名済み”に気が付いた日。

 

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その日、何も考えずに発送したい封書を手に、郵便局へと向かった。

向かう途中、通りから少し奥まった場所に在る専門学校の敷地内では、

フリーマーケットのようなものが開かれていた。

直接その様子を目にしたわけではないけれど、色鮮やかな立て看板や、漏れ出している音、

屋台が出ているのか、鼻を擽る甘辛いソースの香りに加え、行き交う人たちの表情からは、

その場所が賑わっていることが感じられ、その日が土曜日であることに気が付いた。

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自宅近くの郵便局は、土日も窓口が開いている。

そのおかげで、カレンダーの曜日とリズムが合わない生活を送っている私でも、

街の空気から休日だと気がついたとしても、無駄足になることがなく助かっている。

開いているとは言っても、休日の郵便局内は、休日の校舎内やオフィスにも似ていて、

普段とは異なる非日常の、ゆったりとした空気に包まれた窓口。

そこにできた列に並ぶと、普段よりも肩の力が抜けるような気がして、密かにこの時間の郵便局を気に入っている。

私の目の前の女性が発送の手続きをしていると、郵便局員が年賀状の話題を振っていた。

話題を振られた女性は、「まだちょっと早いわね」と答えながら、カウンターに置いてあるカレンダーに目を向け、

「あら、そうでもないのね」と言って笑った。

私もつられるようにしてカレンダーに目を向け、

今年もモタモタしているうちに年末になってしまって、慌てて年賀状を手配するのだろうなと思っていると、

女性が「ついでに、官製はがきも10枚いただけるかしら」と言った。

郵便局員は、ハガキを取り出したあと、柔らかい声で今は「通常はがきですね」と返した。

一瞬、私の脳裏にクエスチョンマークが浮かびかけたけれど、そうか、官製はがきという言葉は消えてしまったのか、と腑に落ちた。

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郵便局の窓口でハガキを買うことが無い私は、もともと官製はがきという言葉を使う機会もなかったものだから、今の今まで気が付かなかったのだ。

官製はがきとは、郵便局が発行し、販売しているハガキのこと。

一般的なものとの違いは、予めハガキの左上に切手が印刷してあるため、切手を貼らなくてもポストに投函できる点だ。

もちろん、現在も、この手のハガキを郵便局で購入することは出来るのだけれど、

もともと国の機関だった郵便局が発行していたハガキだということで、その呼び名に“官製”という冠が付いていた。

しかし、民間企業になった郵便局(正しくは日本郵便株式会社)が発行した現在のハガキは、

“官製はがき”から“通常はがき(郵便はがき、とも)”と、その名を変えていた。

知っているようで知らないこと、気が付いているようで気が付いていないことは、

意外なところに転がっているものだと思いながら、郵便局を後にした。

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本の匂いと秋晴れの日。

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少々早いけれど、年末の大掃除も兼ねて持ち物の整理を始めた。

その日は、1時間ほど書籍類の仕分けをしていたのだけれど、

仕分けの最中に、手にしてから20年近く経っている絵本をパラパラと捲った。

装丁と少し厚めの紙は、共に随分と色褪せてしまったけれど、何度仕分けの機会が巡ってきても手放すことができない1冊だ。

しかし、今回はパラパラと風を送り込んだ際に、古書特有のにおいが気になった。

このような古書のにおいに詫び寂を感じながら、様々な思いを巡らせて楽しむ人もいるけれど、

私の直感は、情緒の欠片すら感じられない「かび臭い」というものだった。

どんなに丁寧に扱っていても、除湿剤や防虫剤を欠かさずにいても、

形あるモノは、こうして少しずつ劣化していくのだ。

しかも、少し厚めの、しっかりとした手触りの紙が使われているため、吸い込む湿気の量も他の本に比べて多かったのだろうと思った。

潔く手放すか……と思ったけれど、もう少しだけ手元に置いておきたい気持ちが勝り、

湿気を吸い込んで、かび臭くなってしまったそれを、補修することにした。

私が知っている本についた匂い消しの方法は2つだ。

日干しか虫干しをして、ある程度の湿気を飛ばし、

その後は適当な大きさにカットした新聞紙を軽く揉んでシワを付け、

そのシワを軽く伸ばしたら、本の間に何枚か挟んで新聞紙に湿気を吸い取ってもらう方法だ。

これを2、3日繰り返せば本に付いてしまった匂いの多くは、きれいに消えてしまう。

新聞紙が無い時には、御懐紙を使ったり、着物用の除湿シートで本を包んで、しばらく放置するというのも手だ。

しかし、もうこのような手法は古いのではないだろうか。

そう思って調べてみると、現代版の本の匂い消しの方法をいくつか発見した。

さすがナチュラルクリーニングの代表格である重曹だ。

ジップロックのような密封袋や容器に重曹と本を入れて、2、3日放置すれば匂いを消すことができるのだそう。

中には、ファブリーズなどの衣類用の消臭スプレーを染み込ませたタオルで、ページを軽く撫でていくという方法も見かけた。

今回は、手持ちの重曹を使うことができ、お天気に左右されない点に惹かれたこともあり、

1冊だけ、重曹を使った本の匂い消しを実践してみた。

数日後、確かに、本のかび臭さは消えたのだけれど、私の扱いが豪快過ぎたのか、

本自体が粉っぽくなってしまったように感じられたこともあり、残りの本は従来の日干しと新聞で匂いを消すことにした。

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後日、日干しをする本をガーデンテーブルの上に並べながら、

新しい手法も大好きだけれど、本の匂い消しに限っては、お日様や自然の風、そして新聞紙を使う、昔ながらの手法が一番。

そのようなことを思ったある秋晴れの日。

 

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思わぬ扉が開いたエスニックディナー。

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時々、口にしたくなるエスニック料理。

自宅で作ることもあるのだけれど、本場のエスニック料理には、本場ならではの塩梅があるように思う。

運良く、徒歩圏内に本場の味と雰囲気を楽しむことができるお店があるため、時々足を運ぶことがある。

先日は、キラキラとした水滴をまとった大量のパクチーが、お店のカウンター上に、鎮座していた。

通された席は、カウンターから随分と離れた場所だったため、通りすがりに目に入っただけだったけれど、エスニック料理店ならではの量の多さに圧倒されてしまった。

日本では数年前に、パクチーがブームとなり、様々なパクチー味の商品が登場した。

他にもパクチー鍋や、パクチーサラダ、追いパクチーといった言葉まで生まれていたけれど、

今も、そのブームは続いているのだろうか。

当時、日本で起きているパクチーブームの様子を、現地の人々に映像で見せてみる。

というテレビ番組の企画を観たことがあるのだけれど、

現地の人たちは、「パクチーだけをこんなにも食べるなんて。日本人はどうかしている」と言っていた。

私の脳裏には、その時の映像が今も残っているのだけれど、ふと思う。

外国の方がワサビの虜になり、ありとあらゆるメニューにワサビを大量につけて食べているニュース映像を目にしたときの、

私たちのリアクションと似たり寄ったりの反応なのだろうと。

そのようなことを思いながら、いつもの分厚いメニューファイルを捲った。

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メニューの端に書き加えられていた「パクチーの別添え可」という文言に気が付き、

やはり、パクチーは好き嫌いが分かれる香草なのだと思っていると、

日本人の店員から、パクチーの匂いに対する好き嫌いは遺伝子によって決まっているらしい。という興味深い話を耳にした。

数年前に目にしたニュースだから詳細は、うろ覚えだということだったため、

後日、そのニュース元を追ってみると、外国で発表された記事に辿り着いた。

 

アメリカに、ある遺伝子解析サービスがあるそうなのだけれど、

その遺伝子解析を使って、人が、パクチーの風味をどのように感じるのかを調べたのだそう。

すると、パクチーの風味成分の中にある、アルデヒドという匂い成分に、

人が持っている嗅覚受容体遺伝子が反応することが分かったという。

この遺伝子は、様々な反応をするらしいのだけれど、

パクチーを苦手だとする人は、この遺伝子に特徴が見られるタイプで、

アルデヒドに対する反応が通常よりも過敏なのだそう。

アルデヒドは様々なものに含まれている成分なのだけれど、

食べることができない石鹸などにも含まれていることもあり、

脳は、パクチーの匂いを口にしてはいけないものだと判断するというのだ。

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ワタクシ、パクチーの好き嫌いは単純に、風味に対しての好き嫌いなのかと思っていたのだけれど、

遅ればせながら、遺伝子レベルでの反応だということを知り、

パクチーを苦手だと言う人に、無理強いをしてはいけないのだと改めて思った記事だった。

人は同じように見えていても、遺伝子レベルから人それぞれである。

たかがパクチー、されどパクチー。

思わぬ扉が開いたエスニックディナーであった。

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理由が不要なこともある。

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苦手な夏が過ぎ去り、過ごしやすくなったこともあり、昼間の外出も苦ではなくなったこの頃。

のんびりと美術館巡りでもと思い、各館の展示プログラムをネットで確認していた。

美術館巡りが好きだと言うと、美術品や作家、その他に詳しいのだろうと早合点されることがあるのだけれど、

正直なところ、私はその辺りに非常に疎い。

そして、疎いからと言って、足を運ぶ美術品や作家に対し、事前に知識を入れて観にいくということもしない。

何となく興味をもったから、試しに実物を観てみよう。

何となく好きだと思っていた作品だから、実物を観ても気持ちが変わらないのか、もっと好きになるのか、試しに実物を観に行ってみよう。

粗方、このような軽い気持ちで足を運んでいる。

そして、実際に足を運んだときも、作品の近くに設置してある解説文は、ほぼ、スルーである。

もちろん、背景を知った上でその作品を眺めれば、違う景色が観え、様々なことを感じることができるけれど、

それは、作品に深く興味を持ったり、好きだと感じたりした後に、もっと知りたいという衝動が起きたときだけだ。

わりと自他ともに認める探求好きだったりもするものだから、友人たちには意外な一面として映ることもあるようだけれど、

「何となく好き」

「何となく気に入った」

「この中では、これが一番好きだった」

このような気持ちや感想が生まれるだけで、十分素敵なことではないかと思っている。

全ての感情に、どうしてそう感じたのかという説明が必要だというわけではないし、

様々な理由ありきの「好き」が全てではないとも思う。

もっともっとシンプルに、自分の日常のひとコマに、今日のひとコマに、「好き」と感じる「何か」が登場した。

それだけでも十分に素敵なことではないだろうかと思うのだ。

例えそれが、明日になったらすっかり忘れてしまうようなことだとしても。

もちろん、そこからもっと知りたいという欲求が生まれれば、

その感情に素直に従うだけなのだけれども。

先日友人が、「美術館は嫌いじゃないけれど、詳しくないから行ってもあまりよく分からない。」と言っていたことを思い出しながら、そのようなことを思った。

分からなくても良いし、「嫌いじゃない」も美術館へ行く立派な理由のひとつだと思うのだ。

他人に対しての正解を探すことに意識を向けすぎてしまうと、視界が狭くなることがある。

美術館に限らず、世の中には、「理由が無くてもよい」ということも意外と多いように思う。

正解を求めすぎず、感じることができたことをシンプルに喜ぶ秋、楽しむ秋。

そのような秋の過ごし方、いかがでしょうか。

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夕暮れ時と夕食の匂いと。

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大自然を流れる爽やかな風とまではいかないけれど、

開け放った窓から新鮮な風が流れ込み、部屋の温度を少しずつ下げていく、この時季の感覚が好きだ。

部屋も自分も小まめに換気していると、心なしかフットワークが軽くなるように思う。

その日も窓を開け放ち、作業に没頭していると、食欲をそそられる匂いが窓から流れ込んできた。

キーボードを叩く指を止め、壁掛け時計へ視線を向けると、夕暮れ時だった。

肉じゃがのような匂いがしていると思っていると、今度は鶏の唐揚げらしき匂いが、

しばらくすると、鯖の塩焼きだろうか。

程よく脂がのっていそうな焼き魚の匂いが、私の鼻先をくすぐった。

他所様のお宅から流れ出している、夕食のメニューを知らせる匂いを嗅ぎ分けながら、

家の夕食は何だろうと、胸を膨らませながら帰宅していた子どもの頃の感覚が蘇った。

自分が好きなメニューだったときの嬉しさと、

心躍らないメニューだったときの、地味に肩を落とす、あの気持ち。

しかも、作り手の気持ちや思いを他所に、その気持ちを露骨に表現することが当たり前だったあの頃。

何気ない日常のひとコマだけれども、

その瞬間のひとつひとつが、私にとって平和で温かいものだったということを、

夕食の匂いがする家へ帰る年齢でも立場でも無くなってから時々、このような形で思い出すのだ。

あのときの立場から卒業し、それと引き換えに手にした多くのものを思うと、あの頃に戻りたいとは思わないのだけれど、

家庭の夕食メニューを知らせる匂いは、飲食店から漏れ出すそれとは明らかに異なっており、

戻ることができないからこそ感じられる懐かしさを、撫でるように刺激する。

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椅子の背もたれにぐーっと背中を押し付けるようにして背を預けながら、ゆっくりと深呼吸をしていると、友人から連絡が入った。

返信ついでに「他所様のお宅から夕食の匂いがしている」と付け加えると、

返ってきた文面には、理由と共に、あの匂いが苦手だとあった。

感じ方やその理由は人それぞれであり、結び付けられている記憶も十人十色だけれども、

あの匂いは、夕暮れ時と相まって人の胸の奥にある何かを刺激するのかもしれない。

そのようなことを思いながら、もうひと頑張りしたある日。

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