休憩ついでに、あるカタログをペラペラと捲っていた。
ウェブカタログも多くなってきているけれど、
限りある資源を使ってゴミを出してしまうということと処分する手間を除いては、
紙を捲るときの指先の感触と紙の音はなかなか良いものだと思っている。
つい、作り手側の立場に立ってしまうため、
仕事とはいえ、カタログを作る側は本当に大変な作業だろうと思う。
魅力的な商品のオンパレードがあってこそなのだけれども、
消費者というものは非常に勝手なもので、
時には、「これ、誰が買うのだろうか」とか
「自分には必要ないけれど、世の中にはこのような商品も存在しているのか」と
あれやこれやと思いを巡らせる楽しみも欲しくなってしまうことがある。
この時の私も特別欲しいものが載っているわけでもなく、
購入の予定があるわけでもなかったけれど、
紙面の中を覗き込んで、さも買う予定があるかのような心持ちで商品への思いを巡らせていた。
ひと通り、目をカタログに通し終え、
すっかり冷めてしまったジューシーなイチゴの香り漂う紅茶をゴクゴクと飲み干した。
そう言えば、私たちの日常を当たり前のように行き交うカタログという言葉。
実はこれ、もとはカタロゴスというギリシャ語なのだ。
日本には英語を経由して入ってきた言葉ゆえ、
英語の印象が強いのだけれどもギリシャ語。
このような言葉は他にも多々存在しているため、
特段珍しいことではないけれど、
どうして、このことが私の記憶に残っているのかというと、
古代ギリシャ人たちは、今でいうカタログ(カタロゴス)というものを
既に使っていたということを目にしたことがあったからだ。
古代ギリシャ時代にホメーロス(ホメロスと呼ぶことも)という詩人がいたという説がある。
※説があると表現するのは、現在、ホメーロス(ホメロス)は実在しなかったのではないか、という説が浮上しているため。
実在の人物か定かではないけれど、彼が書いたと言われてきたイリアスという著書の中に、
人や軍艦船を書き連ねるようにして紹介するシーンが登場する。
古代ギリシャ時代には既に、人や物を説明するものをカタロゴスと呼んでいたという。
私たちが見慣れているカタログは、古代ギリシャ時代には既に存在しており、
美術室に並んでいる石膏像ようなお顔立ちの人々が
カタログを眺めているところを想像してみると、様々な思いが湧きあがった。
時代は進んでいるのか、それとも、私たちが思う程は進んではいないのか、
良いものは時代を越えて愛されるとは、このことだろうか、等々。
その思いの大半は、私のくだらない想像が
脳内劇場のスクリーンに映しだされているだけなのだけれども。
このようなことがきっかけとなり、
私は、カタログを手にすると時々、
現代のカタログを手にして盛り上がる石膏像たちの顔が浮かぶのだ。
カタログを手にする機会がありました際には、
チラリと今回のお話を思い出していただきましたら幸いです。
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