私の好きなもののひとつに、季節の狭間に見る夕焼けがある。
それは、同じ海でも日本海側と太平洋側では海の表情が異なることにも少しだけ似ており、
過行く季節の夕焼けと、これから訪れる季節の夕焼けが混ざり合った、
狭間の表情をしているのだ。
この時季の夕焼け空は正に「それ」で、
夏と秋を内包しているように見えるものだから、
最近の私は、作業の手を止めたり、歩く足を止めたりしながら、空を仰ぐことが多い。
その日は、サーモンピンクの夕焼け空に細くて華奢な白い月が浮かび、
サーモンピンクの空を浸食しているかのように、
グレーがかった雲がマーブル模様のように広がっていた。
美しくもあり、毒々しくも見えたその景色に、私は、しばしの間、惹きつけられた。
吸い込まれそうになりつつ自宅を目指していると、
小学生くらいの子どもたちが割れた鏡を取り囲むようにして遊んでいた。
その様子を、毛艶のよい柴犬を連れたご年配の女性が眺めていた。
女性と柴犬の横を通り過ぎようとしたとき、ばちっと目が合ったものだから何となく会釈をすると、彼女は、通りすがりの私に呟いたのか、ひとり言なのか、
判断つけ難い口調で「近頃は、鏡を跨いでも叱られないんだろうね」と言った。
その後に目が合うことは無かったため、
私は会釈以上の何かを返すことなく、その場を通り過ぎた。
日本にも様々な迷信があるけれど、「鏡は跨いではいけない」というものがある。
きっと時代によっては高価であっただろう鏡を粗末に扱わないようにだとか、
不注意から割ってしまって怪我をしないようにだとか、
そのような現実的な意図も含まれている。
と同時に、鏡は三種の神器のひとつでもあり、
鏡を少しでも傷つけたら災厄が起こると言われ大切に扱われてきた。
また、鏡は映るものの姿をそのまま映し出すため、
モノゴトの見え方だけではなく真の姿をも映し出す不思議な力が宿っていると信じられており、
神社では神様の依り代として神殿の奥に丸い鏡が祀られてきたほどだ。
先人たちほど強く意識しているわけではないにしても、
私たちの日常の中にも、鏡をきれいに保ったり、
ドレッサーや姿見にはカバーをかけたり、
寝姿が鏡に映らないようにするといった習慣がある。
これは、鏡の力に対する考え方や想いが生活習慣に形を変えて
広く浸透し受け継がれている表れでもある。
ただ、時代と共に、その時々に高価なもの、貴重なもの、ありがたみも変化する。
そのこと自体は珍しいことではないのだれど、
そこに付随していた考え方や想いも消えてしまうのだとしたら、少しばかり寂しいようにも思う。
もちろん、生きてきた時代や境遇によっても、その寂しさの質も度合いも異なるのだけれど。
ものの見方も感じ方も、捉え方も人の数だけある。
同じであることよりも、同じでないことの方が自然だ。
そのような事を思いながら夕焼けを背に、
コンビニの袋を揺らしながら家路を急いだ、ある日の雨上がりの夕暮れどき。