大粒のブドウを冷蔵庫から取り出して洗っているそばから、
パクッ、パクッと摘み食いをした。
果汁が口の中から体の奥へと染み広がる感覚が心地よくて、もうひと粒、口の中へ入れた。
秋の味覚だと改めて意識して口にすると、
美味しさもジューシーさも増すような気がするのは私の単純さからくるものだろうか。
幸せな瞬間は多くても困りはしない。
それならば、この単純さはお得感のある性質じゃなかろうか。
自分を思いっきり肯定しつつ、食器棚から取り出したお皿にブドウを乗せた。
私がブドウを食べるときに思い出すことのひとつに、
ブドウの皮は食べる?食べない?というものがある。
ヨーロッパで暮らしていたときに体感したことなのだけれども、
あちらの皆さんは、ブドウは皮ごと、種ごと食べるのだ。
しかも、スーパーなどで買ったものを洗わずにパクパクと口に運んでいく。
友人と歩いているとき、「食べる?」とブドウを房ごと渡されたときには、
洗わなくていいの?皮と種はどこに捨てるの?と思ったものだ。
皮ごと食べた方が栄養を取りこぼすことがないことは頭では理解できるけれど、
潔癖症ではないけれど、衛生管理は行き届いた日本で生まれ育った私にとって、
地味にハードルが高い案件だったように思う。
時々、当時を懐かしむかのように、
日本では皮ごと食べるブドウではないけれど皮ごと食べてみることがある。
種を噛み砕いてしまった時の口の中の違和感と皮を噛んでいると出てくる苦みが、
ブドウの甘酸っぱい果汁と混ざり合い「んー、ブドウの美味しさ半減」と思う。
それでも時々、この食べ方を試してしまうのは、
当時過ごしていた時間が、私にとって充実した良い時間だったということなのかもしれない。
色々と大変だったこともあったはずなのに、だ。
イギリスのことわざに、『学問なき経験は、経験なき学問に勝る。』というものがある。
経験だけ積めば良いということではなく、学ぶことも、経験することも大切なのだけれど
どのような経験も無駄にはならないのだと、
年々、実体験として感じられるようになってきたするこの頃だ。
ブドウを丸ごと食べた時の食感や味わいを知っているからと言って、
それが暮らしの中で役に立つことは無い。
だけれども、彼らが知らない、
種と皮を取り除いて食べるブドウの美味しさを知っているというのは、
私にとっての、ちょっとした、
数十秒後にはすっかり忘れてしまうくらい、ちょっとした幸せの瞬間でもあるのだ。
あなたが感じる「ちょっとした幸せの瞬間」は、どのような瞬間ですか。
そのような瞬間を日々、大切にしてみてくださいませ。