温かいミルクティーとバインダーを手にベランダへ出た。
全身の毛穴をキュッと引き締める冷たい空気が妙に心地良い。
口の中に流し込んだミルクティーは、熱をじんわりと放ちながら体の芯を降りていった。
夏は、薄着にも限度があるため、塩を振りかけられた青菜のようにしている私だけれども、
冬は、ある程度、防寒できることも手伝ってなのか、
時間を問わず、外へ出る機会、この「外」と言うのは自宅のベランダなのだけれど、
これが増えるような気がしている。
その日は、我ながら本当に夏は苦手なのだなと過ぎた季節を思い返しながら、
ガーデンテーブルの上でバーガンディー色をした、お気に入りのバインダーを開いた。
真っ白な無地のルーズリーフは、
「お好きにどうぞ」と言われているような気分になるところが好きで、
長いお付き合いが続いているアイテムのひとつだ。
ぱらっと捲ると、どこぞで試飲させていただいた健康茶が、
想像以上に苦くて飲めたものではなかったことが走り書きしてあった。
そのような体験をしておきながら、お茶の味も茶葉の名も全く思い出せなかったけれど、
イラスト付きで書き残していたところを見ると、衝撃的な苦さだったのだろう。
苦味や酸味といった味の中には、その苦みが美味しい、その酸味が美味しいと言われる味がある。
だけれども、それを初めて口に入れた瞬間、
少なからず「苦っ!」「酸っぱっ!」と感じ、体がキュッと縮こまり、
その味を拒否するかのような感覚に陥ることもある。
味覚も人が持っている学習能力と強く結びついているけれど、もとを辿っていくと、
私たちが生まれて初めて口にするものが、ミルクであることが関係しているのだとか。
ミルクの中には昆布のお出汁に等しいくらいの旨味成分(グルタミン酸)が含まれている。
このため、私たちはある意味、旨味成分と非常に長いお付き合いをしてきているのだ。
そして、この旨味成分は、私たちが生きていくために欠かせないタンパク質にも含まれており、
旨味を欲する感覚は、体にとって必要なものを見分ける印のような役割も果たしているという。
更に、子どもが喜ぶ味の中に甘味があるけれど、
こちらも、生きていくためのエネルギーのもとになる糖分の特徴。
甘味を欲し、好むことは、生きていくためのエネルギーを知っている印でもあるのだ。
一方、コーヒーやビール、山菜、その他に含まれる苦みや酸味を美味しいと感じるのは、
苦味や酸味の全てが体にとって危険なものとは限らないという学習効果によるもの。
「危険なものとは限らない」ということだけではなく、
その苦味や酸味が絶妙な美味しさになることもあるというツウな味覚を手にしているのだ。
しかし、時に、この柔軟なツウな味覚が正しい判断を揺るがすこともある。
これは、そういう味付けなのかな。
そういう味がするものなのかな。
この苦味が、酸味が、この美味しさなのだろうと、うっかり警戒心を下げてしまう瞬間だ。
時々、野山に生えていたキノコや山菜を食べて病院に運ばれたというニュースがある。
若気の至りで調子に乗って食べてしまったというパターン以外に、
口に含んで危険を察知したのならすぐに吐き出すこともできただろうに、
知識や経験も豊富であろう大人がなぜ?というパターンもある。
しっかりと胃の中に収めているということは、
無意識に、“うっかり”を発動させてしまったのかもしれない。
そのようなニュースを見聞きする度に、
時には、自分の感覚や知識、経験値を判断し直すことが必要なのかしら、と思わされたりもする。
私はそんなことはしない、と思っているような時ほど、
学びの先の学びが用意されているとも言えるのかも。
あの私が試飲した健康茶、とても体に良いお茶、ということだったけれど、
あの苦さは危険信号?それとも良薬は口に苦し?
まぁ、後者の方なのだろうけれど、人の学習能力は私が思う以上にオートマティックだ。
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