人の記憶力というものは不思議なものだ、と感じられるような出来事が時々起こる。
先日、外出予定があった私は身支度を済ませた。
あとは靴を履いて玄関ドアを押し開けるだけ、という状態になったとき、
「準備万端」、心の中でそう思った。
と同時に、「準備万端、どうなったの?」と、社会人になったばかりの頃の私に言った
先輩女性の声が頭の中を駆け抜けていった。
当時のことも、すぐに異動になり顔を合わせることもなくなった先輩女性のことも、
その瞬間まで思い出すこともなかったというのに、
やけにリアルに思い出された記憶に理由もなく戸惑った。
私の記憶の中なのか、体の中なのかは分からないけれど、
私の中のどこかに、その出来事と彼女の声が消去されることなく保存されていたのだろう。
「準備万端です」と言うと「準備万端……で、どうなったの?」と返す先輩女性。
その言葉は彼女の口癖の一つでもあったことから、
同期の面々と「今日は、私も言われたよ」といった会話を交わしたこともあった。
少々細かいのだけれども、「万端」という言葉に補足させていただくと、
万端という言葉は、対象に関する事柄や手段のみを表しているため、
準備万端では、準備事項、準備手段と言っているだけの状態で、
尻切れトンボのような、ある意味片言のような言葉を発しているのと変わりないのだ。
ただ、行間を読むことに長けている日本人は、
「準備万端」と聞き「準備は全て整った」ことを察することが出来ているという現状がある。
当時の彼女は、ひよっこ社会人の私たちの曖昧だった「ここ」を突いてきて……、
いや、指導して下さっていたのだ。
「万端」と同義語と思われがちである言葉に「万全」がある。
「準備万端」、「準備万全」など、同義語として使われることがあるけれど、
「万端」は、事柄や手段のみを表していることに対して、
「万全」は、全てにおいて完璧で少しの不備もないことを表している。
だから、「準備万端」と「準備万全」は同じ意味ではなく、
「準備万端整いました」と言って初めて、
相手に準備が全て整っていることを伝えることができ、準備万全と同じ意味になるのだ。
当時の私が働いていた場所は言葉を扱う職場ではなく、
そのやり取りを億劫に感じた日も無かったわけではない。
だけれども今なら、あの時のやり取りが、ありがたいものだったことが分かる。
そのようなことを思っていると、点けていたテレビの中から某CMの鬼ちゃんが発した。
「学んだことは誰にも奪われない」と。
彼の台詞に心の中で大きく頷きながら
言葉の世界は、どこまでも広く、どこまでも深い。
きっと、人の記憶という世界も然り。
そのようなことを思ったある日。