友人との雑談中、不意に、このようなことを尋ねられた。
柊希は和歌とかの本が鞄に入っていることが多いけれど、何を思いながら読んでるの?と。
何を思いながら……、始めての問いかけというものは思考が一瞬、行き場を失う。
あんなことや、こんなことや、とにかく様々だと答えると、
「今日も何か入ってる?」と言いながら私の鞄へ視線を向けた。
とっさに、人様にお見せできる本だったかどうかを思い返し、
鞄の中から百人一首の本を取り出して友人の手の平の上にそっと乗せた。
友人は、本の中身を見ることなくパラパラとひと通り捲った後、
パタッと本を閉じたかと思いきや、「ここ」と言いながら本を開いた。
「これを読んだら、どんなことを思うの?」と無邪気な顔で問いかける友人に、
無茶ぶり以外のなにものでもない、とブツブツ言いながら本を覗き込んだ。
そこには、平安時代きっての色男、
今で言うところのイケメンだと言われている在原業平の歌が載っていた。
当時の色男だからと言って現代でもそうだとは限らないと思う私は捻くれているだろうか。
どのような時代も、華のある人は後世に名を残すものなのだろう。
その平安きっての色男、在原業平が詠んだ歌はこれだ。
『千早ぶる 神代も聞かず 竜田川 からくれないに 水くくるとは』
歌の中に登場する竜田川は奈良県にある紅葉の名所で、「くくる」というのは絞り染めのこと。
そして、この歌を現代語に意訳にすると、
「不思議なことが多かったとされる神様たちの時代でも、
竜田川に紅葉が散り、川の水を真っ赤にくくり染めにするなどということは
聞いたことがない」といった内容だ。
色のコントラストが美しい映像が浮かぶからだろう、この歌に惚れ込む人も多い。
ただ、私はこの歌を見聞きする度に、竜田揚げを欲してしまうのだ。
と言うのは、竜田揚げの「竜田」は、この「竜田川」のことで、
諸説あるうちの一つではあるに過ぎないのだけれど、
この歌が竜田揚げの語源だと言われている。
お醤油に漬け込んだお肉の赤い色と、衣の白い粉が混ざった様子を
竜田川の白く見える川の流れに浮かぶ紅葉に見立てたそうなのだ。
和歌の世界に絆されて、「竜田揚げ」を前にうっかり、
風流な語源だ、趣きがある語源だなどと口を滑らせてしまいそうになるのだけれど、竜田揚げだ。
そして、鶏肉の竜田揚げを想像してしまったら最後。
あのボリュームに圧倒されて花より団子、
紅葉よりも竜田揚げ、という気分になってしまってしまっても不思議ではないと、
私は密かに思っていたりする。
紅葉の時季なら在原業平が見たであろう景色に思いを馳せることもできるけれど、
少なくとも、この季節の私には、今晩のおかずは竜田揚げにしたい!と思わせる和歌である。
この歌から何を思いますかと問われ素敵なエピソードを期待されることもあるけれど、
人の脳内も和歌の覘き方も、突飛でいいと思うのだ。
今夜の献立に頭を悩ませている方、
色男が詠んだ歌と共にお好きな食材で竜田揚げなどいかがでしょうか。