とある天満宮のそばにある信号機に足止めされていると、天満宮の敷地内から数名の学生服姿の少年が出てくるのが見えた。
この時季にお詣りをしているということは、受験を控えた学生だと思うのだけれど、一緒にお詣りにきた友人同士というような雰囲気はなく、顔を互いに見合わせることもないまま、それぞれの方向へと歩き出した。
出来ることを全て行ったら、あとは神頼み。
時代が変わっても、消えずに残っている光景のひとつのようである。
天満宮と言えば菅原道真、などと思いながら天満宮の前を通っていると、敷地内に咲く梅の花が目に留まり、菅原道真が子どもの頃に詠んだと言われている歌を思い出した。
菅原道真は学問の神様として知られているけれど、神童と呼ばれるほど子どもの頃から頭がよかったそうだ。
大人になってからもそこがブレることはなく、仕事もでき、和歌を詠むのも上手で、更には乗馬や弓の腕もなかなかのものだったと言われているところをみるに、文武両道に秀でた人物だったのだろう。
その彼が4、5歳の頃に詠んだ歌が残っているのだ。
和歌そのものは、私の頭の中からすっかり抜け落ちてしまっており、脳内には和訳しか残っていないけれど『紅色をした梅の花は美しいな、きれいだな。僕の顔にも付けてみたいな』というような意味の歌である。
幼き子が、しっかりと和歌を作っているというところに注目すべきなのかもしれないけれど、私自身は、その可愛らしい視点に触れ、菅原道真にも子ども時代があったのだと、あたり前のことを思った記憶がある。
そのような子どもらしい一面も持ち合わせていた菅原道真だけれど、大人になると出世を妬まれて、あることないこと噂されて無実の罪を着せられた後、九州の太宰府へと左遷され、無念の思いを胸に、その生涯を終えている。
菅原道真の死後、彼を妬んで陥れた人たちが、亡くなったり疫病が流行ったりと不運続きだったものだから、怨霊などと呼ばれたりもしたけれど、今はそのようなイメージを抱く人も少なくなり学問の神様として親しまれている。
彼を語るためのエピソードは多々あるのだけれど、度々登場するのが牛である。
左遷先の太宰府へ向かう途中、離れ離れになったはずの飼牛が菅原道真のピンチに現れて彼を救っただとか、丑年生まれの彼が亡くなった日が丑の日だったり、彼の亡骸を運んでいた牛が動かなくなり、その場所が墓地となったなど、とにかく牛とのご縁が強い方だったようだ。
このようなエピソードが多数残っているため、牛は神様の使いとして見られるようになり、天満宮には牛の像が祀られていることが多いのだそう。
ちなみに、牛の頭を撫でれば知恵を授かり、自分の体の不調箇所を撫でた後に牛を撫でれば牛が不調を受け取ってくれるため不調が快方へ向かうと言われている。
春のご旅行やお出かけで天満宮に立ち寄る機会がありました折には、道真公や牛のことをチラリと思い出していただけましたら幸いです。
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