私が住んでいるマンションには、私が知る得る限りでは数組の外国人の方がいらっしゃる。
エレベーターや駐車場などで顔を合わせる程度の間柄なのだけれど、それぞれのお国の風習がちらりと垣間見えることもあり、面白い。
そうかと思えば、日本人よりも日本人らしい所作で対応されてハッとすることもあり、人との接点や関わりは大きい小さいに関わらず、何かしらの気付きがあるように思う。
この日は、英語発音の癖からオーストラリア出身の方ではないだろうかと勝手に想像している方とエントランスですれ違った。
マスクをしていると上手く伝わらないことも多いため、普段よりもオーバーリアクション気味に会釈をした。
その意図が伝わったのか、その方からも普段よりもオーバーリアクションの会釈が返ってきた。
会釈というよりは、お辞儀を覚えたばかりの子どもがするお辞儀のようなリアクションに、マスクの中で口元が緩んだ。
そして、声を出さなくても礼節を欠かずに伝える術があることを有難いと思った。
マンションを出ると、夏の熱を帯びた日差しが、頭を容赦なく照らしてくる。
5分、10分も歩けば手で触れなくても分かる熱が、頭のてっぺんから、じわじわと体内に広がり、体の中もマスクの中も、夏以上に夏になった。
あまりの暑さに、背に腹は代えられぬと思い、日陰を縫うようにして目的地へと向かう途中、横断歩道少し手前に出来た日陰の中で信号待ちをした。
意識の半分を暑さに引っ張られながら落とした視線の先には、今年はじめて見る露草(ツユクサ)があった。
涼し気な淡い水色の花びらの中央にあるのは雄しべと雌しべだろうか。
黄色いそれらが良いアクセントになった露草(ツユクサ)は、一服の清涼剤のような咲き姿をしていた。
露草(ツユクサ)は、万葉集にも登場する花である。
どのような和歌だったか、誰が詠ったものだったかまでは覚えていないのだけれど、露草(ツユクサ)がすぐに色褪せてしまう様子を人の心変わりと重ねた、切ない恋の歌があったように思う。
和歌が詠まれていた時代、今から1200年以上も前からある花だなんて、あの繊細な咲き姿からは想像し難く不思議な感じもするけれど、繁殖方法を複数持っている彼らは、それらを駆使して今もここにあるのだ。
ただ、少し気になるのは特徴の変化である。
露草(ツユクサ)は、午前中に開花し、昼には萎んでしまう草花だといわれていたのだけれど、ここ数年、私が目にしているのは午後や夕方ばかりである。
しかも、6月辺りから咲き始め、お盆を過ぎれば少しずつ目にする量も機会も減るはずなのだけれど、近ごろは9月から10月頃まで咲いているように思う。
「心変わり」だけでなく昼には萎んでしまう性質から「儚さ」と重ね合わされることも多い露草(ツユクサ)だけれども、もしかしたら、持ち前の生命力と繁殖力の強さから密かに進化を遂げており、今は、朝だけでなく出来るだけ長い時間、咲くことができるようになっているのではないか、と思ったりもする。
1200年以上も前の先人たちが、そのように進化した露草(ツユクサ)を見たら、どのような和歌を詠むのだろうか。
何と重ね合わせるのだろうか。
暑い夏の、一服の清涼剤のような露草(ツユクサ)の水色を横目に、そのようなことを思った。
皆様の側で見かける露草(ツユクサ)の中にも、儚さの代わりに力強さを手に入れた、進化系の露草(ツユクサ)があるかもしれません。
可愛らしい水色の姿を目にした折には、今回のお話の何かしらをチラリと思い出していただけましたら幸いです。
いつも足をお運びくださっている皆様、ありがとうございます。
暑くなってまいりましたので、水分補給を忘れずに素敵な土曜日をお過ごしくださいませ。
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