私がよく立ち寄る書店の入り口近くには、
児童図書、児童文学と呼ばれる類のコーナーが設置してある。
昔ながらの作品がまとう装丁は、時代を反映したデザインに変化しながら書棚に並んでいる。
中身は昔から変わらないけれど、“イマドキ”をまとうその様子を興味深いと感じる、
という妙な理由で、時々、児童図書、児童文学コーナーへ足を運んでいる。
先日は、取り出した状態で無造作に置かれている『みにくいアヒルの子』が目に留まった。
アンデルセンか……、そう思ってしまった私は、
子どもの頃のような眼差しで彼の作品を読み進めることは、もうできないように思った。
アンデルセンと言えば童話作家として名を馳せており、
『みにくいアヒルの子』、『裸の王様』、『人魚姫』、『マッチ売りの少女』など数々の作品を残している。
彼が生きていた時代に親しまれていた童話や読み物は、
昔から語り継がれてきた伝説や民話などを作者目線で解釈したり、
作者の感性でアレンジを加えるといったスタイルが主流だったと言われている。
しかし、彼が書いていた作品は、
彼自身の体験や社会情勢をベースにした創作童話という独自のスタイルだった。
だから、彼の作品は、当時の貧困層が抱いていた思いや、
苦しい生活状況に対して問題提起するようなものが、とても多い。
そのような作品だと知った上でアンデルセン童話を手に取ると、
文章に起こされていない背景やメッセージに気付くことができる。
いわゆる行間を読むことで裏側のストーリーを覘くことができる作品でもあるのだ。
私は、子どもの頃には覘くことができなかった、その行間を覘くことができるようになったとき、
アンデルセンが書く物語から、病的なにおいを感じるようになった。
それは、彼の生い立ちや境遇が彼の心の中に作った深い闇の片鱗であり、
彼の声にならない叫びのようなもののようにも思えた。
そして、時代背景に気を配りながら、
既に知っているストーリーを追っている中で感じることもある。
自分の職業を選ぶことができなかった時代は、生まれると同時に歩む道のりは決まっていた。
現代から見れば、なんて窮屈な時代なのだろうか、幸せだったのだろうか、と思う。
だけれども、視点を変えるなら、
初めから歩む道のりが決められていて、それ以外の道が無いのだとしたら、
ある意味、未来を不安に思うことなく過ごすことができたのかもしれない。
そのような見方をするならば、
自由に考え選ぶことができる今は、様々な可能性があるけれど、
自分が抱く理想と現実の狭間で、
自分の職業を選ぶことができなかった時代には無かった思いと、
向き合い続けなくてはいけないようにも思う。
自由に考え選ぶことができることによってもたらされるものは、幸せなのか、不幸せなのか。
メリットなのかデメリットなのか。
きっと、どのような境遇にも、そのような両極の部分というものはあるのだろうけれど、
片方のみを見ようとすれば、幻想のような闇に忍び寄られるのかもしれない。
馴染みあるアンデルセンの作品を読み返してみると、
そのようなことを考えさせられたりもする。
アンデルセンの作品は、書かれた時代によってテイストが異なることがある。
生きることに不器用だったように見える彼だけれど、
晩年の彼は旅行記の執筆なども増え、大勢の作家たちとの交流もあったのだとか。
彼の旅行記を読んでみれば、晩年の彼の心情を垣間見ることができるのかもしれない。
いつか機会があれば……、そのようなことを思いながら書店をあとにした。
本を読みたいけれど、まとまった時間が取れないために、
何となく小説には手を伸ばし難いという方もいらっしゃるかと思うのです。
そのような時には、既に知っている作品を作者の生い立ちや、
生きた時代を知った上で読み返してみると、
書かれた当時の時代背景や、作者が身を置いていた環境から抱いた感情、
形成された性格などを覘くことができるのではないでしょうか。
ご興味ありましたらアンデルセンの世界を大人目線、大人思考で紐解いてみてはいいかがでしょうか。