電車内の座席に座っていた。
途中、ドアが開き、大勢の乗客が降りていった。
すぐに、外の新鮮な空気を車内に連れ込むようにして、新たな乗客が乗り込んできた。
そのような普段通りの光景を眺めていると、どこからともなく、花の香りが漂ってきた。
それは、アロマ精油と呼ぶには瑞々しさが強く、香水と呼ぶにはシンプルに感じた。
乗客たちが各々の場所に収まり電車が動き出したあと、私のすぐ近くに一人の女性が立った。
手には大きな花束を抱えていた。
香りの正体は、これだ。そう確信した。
窓ガラス越しに見た花束の中には、今が旬であるアネモネがたっぷりと使われていた。
アネモネ、凛とした黒い蕊(しべ)を持ち、混ざりけのない鮮やかさをまとった花びらが特徴的だ。
一見、可愛らしい印象を抱かせる花だけれども、
マットな質感のゴールドや漆黒の花瓶に生けると、大人の表情がグッと増す、妖艶な花のように思う。
長く楽しめる切り花ではないため、最後は、後ろ髪を引かれる思いでの別れとなるのだけれど、
年に数回、手を伸ばす花だ。
アネモネは、皮膚炎を引き起こす毒を含んでいるため、茎をカットする際には注意が必要だと言う。
妖艶な美しさに気を取られていると痛い目に遭うため、
花と女性の扱いには気を付けなくてはいけないのだと、
以前、どこぞやかでお世話になっていた花屋の店主に教えてもらったことがある。
それ以来、私は細心の注意を払って水切りをしているおかげなのか、未だ毒の影響を受けたことは無い。
そして、アネモネと言えば、ギリシャ神話との繋がりがある花でもある。
こちらでは、ギリシャ神話に触れる機会が多いため、
薄々感づいていらっしゃる方も多いかと思うのだけれども、
ギリシャ神話やローマ神話に登場する神様たちの話というのは、恋愛の縺れ話が非常に多い。
きっと、人を愛する際に生まれる様々な感情は、時代や立場をも超え、万国共通なのだろう。
アネモネの背景はと言うと、
愛と美の女神として名を馳せているアフロディーテ(ローマ神話ではヴィーナス)の胸に、
彼女の息子であるキューピッドが放った、愛の力を宿した矢が誤って当たったことにより、
彼女は、たまたま見かけたアドニスという名の美少年に恋をしてしまうのだ。
キューピッドとは、弓矢を持ち背中に羽の生えた、あのお馴染みの天使のことなのだけれども、
愛の矢を誤って当ててしまった例が他にもあり、
キューピッドの弓矢の技術は非常に心許ない……と私は勝手に思っている。
その心許ない技術で放たれた矢を当てられたアフロディーテが恋した美少年アドニス、
狩りの最中に猪によって命を落とすことになるのだ。
当然、アフロディーテは悲しみのあまり涙を流すのだけれども、
この女神であるアフロディーテの涙がアネモネの花になったという説や、
アフロディーテがアドニスの血からアネモネの花を咲かせたという説がある。
ヨーロッパでよく知られているアネモネにまつわる神話は、
このアフロディーテ(ローマ神話ではヴィーナス)の神話ですが、
他にも、春風を司る西風の神・ゼピュロスの恋から生まれたという話もあります。
こちらは、また機会がありましたら……。
このような愛や恋にまつわる神話があるからでしょうか。
ヨーロッパでアネモネは、愛を象徴する花として贈ったり、ウェディングシーンで用いられることが多いように思います。
アネモネの時季は、もう少し続くかと思います。
アネモネを目にする機会がありましたら、
アフロディーテでもよし、美少年アドニスでもよし、弓矢技術が未熟なキューピッドでもよし、
登場人物をチラリと思い出していただけましたら幸いです。
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