探し物があったことを思い出し、通り過ぎようとしていた書店へと踵を返した。
お目当てのものは無いと分かり、本もネットで買うことが多くなってきたなと思った。
重い本を自宅の玄関先まで届けてもらえるのだから、便利でありがたいのだけれど、
時代の流れだとは言え、街の中から書店が消えてしまう姿は、あまり見たくないと思う。
とてもアナログだけれども、自分の足で偶然出会う、ジャンルやカテゴリーを超えた1冊は、
モニター越しの出会いとは異なる気持ちの高揚があるように思うのだ。
その日も、書店内を一周したのだけれど夏休みだからなのだろう。
名作図書、推薦図書といった新旧ごちゃまぜのコーナーが立ちあげられていた。
長年親しまれている旧作にも、現代のイラストレーターによって描かれたカバーがかけられ、
より親しみやすいビジュアルで並んでいた。
伝統をそのまま守り発信するだけではダメだ。伝統を守りつつ進化や変化を加えねば。
そのようなことを職人の口から聞くことがあるけれど、確かにそのようだと感じる光景である。
私が足を止めた少し先には、先日話題にした宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』や芥川龍之介の作品などが並べられていたのだけれど、学生たちが、その前で言っていた。
芥川龍之介の本とか読みにくいよね、と。
『羅生門』や『蜘蛛の糸』などは教科書で触れる機会があるけれど、気難しそうな人という匂いが漏れているのだもの。
他の作品を全て読んでみようという所までは、なかなか辿りつかないのだろう。
これもまた、理解できる光景であった。
ただ、この芥川龍之介、プライベートで書く文章は、とても柔らかく、素直な気持ちをストレートに綴る人なのだ。
文章だけを読み比べたら、同一人物だと思う人は少ないのではないだろうか。
昨年、当時24歳だった彼が後に奥様となる文さんへしたためた手紙が公開された。
出だしは、「文ちゃん。」である。
私は、この部分だけでギャップを感じてしまったのだけれども、
プロポーズのようにも受け取ることができる手紙の中には、このようなものも。
『貰ひたい理由はたつた一つあるきりです。さうして、その理由は、僕は文ちやんが好きだと云ふ事です。勿論昔から好きでした。今でも好きです。その他に何も理由はありません。』
そして、これは『羅生門』を発表した翌年に書かれたものだというのだから、
色々な顔を持っていたのだろうと思うのだ。
他の手紙では、
『この頃ボクは文ちやんがお菓子なら頭から食べてしまいたい位可愛い気がします。嘘ぢやありません。』と綴られる場面も。
古の世界に触れる際、今と変わらぬものがある。
それは、「人の想い」「人への想い」であり、色々なカタチの愛。
彼らが生きていた世界や景色は想像で見て感じるしかないのだけれど、
気持ちや想いには共有できる部分が少なからずあるように思う。
芥川龍之介の作品や彼に対して“難しさ”を感じていた方は、
このような彼の一面を入り口にして、彼の作品に触れてみても面白いのではないかと思う、この頃だ。
関連リンク:田端文士村記念館
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