先日、とある劇場の前を通りかかると、素敵なお着物をまとった女性が立っていた。
着慣れていることが遠目からでもすぐに分かるような出で立ちだったこともあり、視線が自然と女性に引き寄せられた。
シンプルでありながら、帯締めや帯揚げなどの色使いに上級者の装いを見たような気がして、後ろ姿にも興味が沸いた。
すると、タイミングよく女性がくるりと私の方へ背を向け、駆け寄る待ち人に手を振った。
通り過ぎながら後ろ姿に視線を向けると、帯には、ごろんと横たわる可愛らしい猫が刺繍してあった。
着物を着る機会が少ない私は、毎回、きりりとキメあげてしまいたくなり、
遊び心にさえもそれが透けてみえるような着方になってしまうことが多いのだけれど、
本当に着慣れている方というのは、大胆な遊び心や変化を、肩の力を抜いて、さらりとまとっているのだろう。
いや、そのようなことすら考えることなく、「自分らしさ」というブレない軸を持つことができているのかもしれない。
変化と言えば、知人たちとの会話の中には時折、大人の女性が経験する変化の中には、大なり小なり、
これまでの日常や自分を半強制的に根底から覆されるような変化というものがあるという話題が様々な角度から登場する。
この変化は、未知なる世界を前にして怯む自分が、不安という形で表れたりもするのだけれど、そもそも不安とは、と話は続く。
冷静なときに不安というものを見てみると、不安は、分からないということに対しての不安であり、変化に対しての不安ではないことが分かる。
そして更には、未知なる世界が「不安なもの」であるとは限らないし、決まってもいないのだけれど、
うっかり自分で、そのような世界を想像し、「そうかもしれない」「いや、そうだろう」などと思い込んでしまうことがあることも分かる。
この、うっかり自分で作り出した想像の世界に、どっぷりと浸かってしまうか否か、どの程度その世界に留まるのかは個人の自由だけれど、
私は、これは、人が持っている危機管理能力が発動したサインではないかと思っている。
仮に、変化の先にあった世界が想像したいたような「不安なもの」だったとしても、
そこへ飛び込んだ後は、その「不安なもの」は「対処すべきモノゴト」に変化するのだから、
永遠に「不安なもの」であることは無いのだけれど、
永遠であるかのような錯覚が、自分をその不安に縛り付けてしまっているように見えるのだ。
もしくは、対処すべきモノゴトに変わった瞬間に、次の不安材料を探してきて、終わりが見えない迷路を作り出して足掻いているような。
変化を、不安なものと捉えずに、
新しい自分を知る機会、新しい情報や知識を知る機会がやってきた、と思うことができるたなら、
見える景色も少しずつ変わってくるように思うのだけれど、まぁ、私たちの想像力は豊かである。
そのようなことを思いつつ、その日は、不安を伴っていた小さな変化の渦中にエイッと飛び込んでみた。
すると、それは対処すべきことに変化し、不思議なほど晴れやかな気分になった。
目の前に現れた変化というものを、どう見て、どう扱うのかは、いつだって自分次第だ。
そして、小さな一歩は、大きな一歩であると感じた日。
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