開け放った窓から電車が走る音が聞こえた。
普段は聞こえないはずの音が近くにあるように聞こえるときというのは、雨が降るサインだと言われている。
これは雨を降らせる低気圧が運んできた空気によって普段とは異なる層が上空にでき、この空気の板のような層に普段は聞こえないはずの音がぶつかり、
それが跳ね返るようにして地上の広範囲に広がるため、普段は聞こえないはずの音が聞こえるのだとか。
開け放った窓から電車が走る音が聞こえてから数時間ほど経ってからだろうか、窓の外から聞こえるBGMが優しい雨音に変わったのは。
先人たちが遺した季節を表す言葉やことわざの中には、天気を知る方法も含まれている。
現代のような精度の高さは無かったかもしれないけれど、日常で使うには十分だったのではないかと思う。
先日、このような話を耳にした。
時々見聞きする話題なのだけれど、現代人は、口にする食べ物の鮮度を自分の五感で判断することが苦手になりつつあるのだとか。
多くの食品に記されている賞味期限や消費期限を答えとしているため、自分がどう感じたのかという基準での判断に、大なり小なりストレスを感じるようなのだ。
ざっくりとしたものではあるけれど、自分の五感を使って感じ取り、判断できていたはずのことなのに、何を感じているのか分からなかったり、感じたことに自信を持てないという。
天気予報も、これに似ているように思う。
時代の流れというものもあるのだから、こうなってしまうことがダメだということではないけれど、このようなとき、先人たちの、暮らしの中に寄り添うような形で散りばめられたあれやこれやは、
指南書のようにも見えるし、暮らしを豊かに楽しむためのちょっとしたヒントのようにも見える。
予め用意されている答えを最短ルートで手にして進む道も悪くはないけれど、五感を使って多くを感じ、眺めゆく道も良いものである。
私たちの手中には、宝ものがいっぱい。
宝の持ち腐れにならない程度に、新旧の様々を自分の塩梅で融合されられたなら。
そのようなことを思った、ある日の雨音である。
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