個性的な筆字で「料金表」と書いてあるボードを見上げ、料金を確認しながら、いつぞやかに聞いた話を思い出した。
それは、料金というものは、お金をいただく側が決める金額だという話である。
分かりきっていることなのだけれど、そのとき、なるほどと腑に落ちたのだ。
当時、法事で休暇を取っていた仕事仲間が休暇明け、「お布施」と書いてお金を包むことがあるけれど、どうして「お布施」なんだと思う?と尋ねてきたことがあった。
それはお経をあげていただいたときにお渡しする「お布施」のことかと聞くと、そうだと言った。
はてさて……。
そう書き記すものだということ以外考えたことが無かった私は、改めてそう尋ねられたものの、ハッキリとした答えを返すことができず、それがルールだから?というような内容の言葉を返したように思う。
すると、彼女もその時の法事に出席するまで「そういうもの」という認識しかなかったと言った。
しかし、年齢的にも社会人としての立場的にも、新人と言えば大目に見てもらえる年齢の域を出ており、周りからは知っていて当たり前という目で見られる妙齢に差し掛かっていたものだから、「どうして?」という疑問が湧いたという。
法要を終え、お寺の隅で素朴な疑問を姉妹で話していると、偶然それを拾い聞いたお寺の方が、教えてくださったそうだ。
「お布施」は、あげていただいたお経に対して包むお金なのでお経料という表現があってもおかしくないように思うけれど、
「料」という字には、「ものごとをはかる」という意味も含まれているため、「お経料」と記してしまうと、お坊さんがあげてくださったお経に対して、あなたのお経は、これだけの金額相当のお経でしたよ」と言っていることになるのだとか。
知らずに書き記していたとしたら冷や汗レベルの上から目線である。
もしくは、お経をあげていただく前に「お経料」と書き記して包んだお金をお渡ししていた場合、「この包んだ金額相当分のお経をあげてくださいね」という意味に取ることもできるのだとか。
もちろん、知らずに書いてお渡ししてしまったとしても、お寺の方やお坊さんから意地悪をされるようなことはないのだろうけれど、「料金」と書き記すものに対しては、このような意味が含まれているという。
だから、「料金」というものは、お金をお支払いする側の立場の者ではなく、お金を受け取る側の立場の者が決める金額だというのだ。
昨今、あげていただくお経に対しては、予め金額が決められていることが多いと思うのだけれど、気持ちを包むという意味で「お布施」と書き記すようだ。
こうした説明を聞くと、しっかりと腑に落ちるからなのか勝手なもので、何となくそうだろうなと感じていたような気にもなるのだけれど、
不意に「どうして?」と尋ねられるとき、答えを持っていない自分に気付かされることがある。
既に持っているものに気付かないこともあるけれど、持っていないことに気付かないこともあるなんて、人って不思議である。
そのようなことを思い散らかしながら、料金表を確認し、お目当てのコッペパンを購入した日。
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