少し前に極早生みかん(ごくわせみかん)をいただいた。
気候の影響なのか品種の違いなのか、降臨したみかんシーズンのトップバッターのルックスは、フレッシュな緑色を残した檸檬色をしていた。
皮を剥いたときにパチンと弾けるように広がるあの瑞々しい香りがたまらない。
ひと房を口の中に放り込むと、酸味強めの果汁が口の中にじゅっと溢れ出た。
甘くはない、な。
正直なところ、そのような感想が浮かんだけれど、夏を乗り切った体にとってはご褒美のような、まさに今の身体が欲している味がした。
その時季にしか味わえないものを少しずつ味わうときに思うことがある。
例えば、フルーツ。
フルーツは甘さが決め手という流れがあるのか、世の中にあるフルーツは、本来の姿では存在できず、より甘くあることを課せられているように見えて、少し気の毒に感じたりする。
そう感じている私も、簡単にスイートマジックにかかり、甘いフルーツに出会うと気持ちが高揚することも多々あって、間違いなく世の中の、流れの中の一員であるのだけれど、酸っぱいも甘いもどちらも「らしくていい」という感性は無くしたくないと思っている。
この時季のこれは、こういう酸っぱさよね。
今年は甘くて嬉しい。
今年は、びっくりするほど酸っぱくて食べるのがツライけど、この季節がきたね。
と、味以外も含めた「その時ならでは」を静かに、あるいは大切な人と楽しみたいと思うのだ。
いつ食べでも甘くて美味しいのは嬉しくて有難いけれど、甘くないがあるから甘いを、甘いがあるから甘くないを感じられているわけで。
そればかりではいつか、その「美味しい」は美味しいでなくなってしまうのではないだろうか、なんて心配がぼんやりと浮かんだ。
私が口にした今年の極早生みかんは、昨年のものよりも酸味が強いように感じたけれど、口の中に溢れ出た果汁は、ものすごい勢いで五臓六腑に染み渡っていくように感じられた。
頭の中では、甘いとは言えなかったそれに対してのクエスチョンマークが点灯したけれど、体の方は、「夏が終わったら、これ、これ、これですよ!」と言いながら喜んでビタミンチャージしているかのようだった。
体はいつだって正直でシンプルだ。
そのようなことを思いつつ、今年お初の極早生みかんを美味しくいただいた夜。
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