同じフロアの2軒隣りで一人暮らしをしていらっしゃる、年配のご婦人にエレベーターホールでお会いした。
ご婦人と顔を合わせるのは、私が今のマンションに引っ越してきたときにご挨拶をして以降、遡って数えられる程の回数のみである。
それなのに、このご婦人は会うと必ず「貴女のお顔を久しぶりに見ることができたから、今日は良いことがありそうだわ」と仰る。
そう言われる度に、嬉しいような、レアなキャラクターとして認識されていることに対してのリアクションに困るやら、私たち二人の間には不思議な空気が広がるのだけれど、それがとても優しいものに感じられるのは、可愛らしいご婦人がまとっている雰囲気のおかげであるような気がしている。
毎回、一分にも満たないような僅かな時間を共有して短い会話を交わすのだけれど、ご婦人は会話の中で幾度も「おかげさまで」という言葉を口にする。
口ぐせなのかしらと思ってしまうくらい「おかげさまで」と付け加えるものだから、最初の1、2回は、会話の内容が一切記憶に残らぬまま話を終えたように思う。
しかし、ご婦人が発する「おかげさまで」という言葉を思い返していると、全てのものごとに感謝しながら、丁寧に暮らしていらっしゃることが伝わってくるような気持ちがした。
お作法や社交辞令の類を一切感じさせない、純粋な「おかげさま」である。
無粋なことだと思いながら、お年の頃を勝手に想像するに、戦後の激動期かその名残が残る中を生きてこられた方のように思う。
そうだとすると、全てのものごとに対する感謝の気持ちも、私が思うそれとは重みや深みが異なっており、ご近所の方と顔を合わせることも当たり前のことではなく、ちょっとイイことに分類されていたりするのではないだろうかと、更に勝手な深読みに拍車がかかった。
真意を確かめる術はなく、半年に一度、顔を合わせることができるかどうかという淡い関わり合いではあるけれど、ご婦人との何気ない会話を通して、「ささやかだけれども大切なこと」や「おかげさま」という言葉の魅力に気付かせていただいているような気がしている。
しかし、一番に感心するのは、いつもにこやかで、穏やかで、可愛らしい笑顔で声をかけてくださるところだ。
近年、キレやすいご年配の方の話題を見聞きすることもあって、複雑な思いを抱くこともあるけれど、自分が将来こうありたいと思うのは、同じフロアの2軒隣りで一人暮らしをしていらっしゃる可愛らしいご婦人である。
「おかげさま」
特別に意識したことはなかったけれど、改めて、いい言葉だと感じた日。
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