かれこれ4、5年ほどキッチンのワークトップスペースで育てている観葉植物があるのだけれど、今年はこの成長が著しい。
気温が上がるにつれスペースを占領しそうな勢いで成長しだしたこともあり、思い切って鉢をレンジフードの上に置いてみることにした。
行き場が定まらぬまま伸びっぱなしだった茎は、ほんの少しだけ上から垂れるように配置してみたりして。
その結果、ワークスペースは思いのほか広くなり、目線がレンジフードの上へも向くようになったことで空間が広くなったような錯覚まで生まれて、気分も上々である。
心配事と言えば、万が一、地震が起きた際の揺れで落ちてきたとしたら困るというくらいだろうか。
だから念のために、鉢の下には耐震ジェルシートを忍ばせるなどして、キッチンのプチ模様替えを完了した。
小さな鉢を移動させるだけで随分と印象が変わるものだと、少し離れた場所から背中を壁に押し付けながら真新しい風景を眺めた。
ふと、壁に背中を押し付けたときの感覚が何かに似ているような気がして、思考を巡らせていると、懐かしのと言うべきか「座高測定」を思い出した。
ついでに、健康診断の中に含まれるそれを受ける度に、これには何の意味があるのだろうかと思っていたことも一緒に。
胴の長さが分かったところで何かメリットがあるいようには思えなかったし、メリットどころか、胴の長さから分かることと言えば、足が長いか短いかくらいで、場合によってはネガティブな視点が強調されるだけの測定じゃないかとさえ思っていたくらいである。
そのような、意味不明な測定を受ける機会も無くなり随分と年月が経った頃である。
学校で受ける健康診断項目の中から座高測定が廃止されることになることを知ったのだ。(現在は廃止されているらしい)
正直、「へぇ、廃止か」という程度の感想だったのだけど、そもそもどうして座高測定が始まったのか。
そこに触れている記事を目にして驚いたのである。
何でも、座高測定の始まりは戦時中だったらしく、当時のお見立ては、胴が長ければ内臓が発達しているというものだったそうで、内臓が発達していれば健康だという判断だったという。
更に、身長に対して胴が長いということは脚が短いと言い換えることもできるけれど、脚が短いということは体の重心が低いということでもあり、体の重心が低いということは安定感があり、そのような体型の者は良い兵士になると考えられていたそうだ。
今の私たちの知識や医学的な視点で見れば突っ込みどころがありすぎる測定だけれど、座高測定が始まった当時の世の中は、それを必要としていたということである。
ようやく、現代の子どもたちに不要なものが廃止されて、必要なものが新たに加えられることになったようなのだけれど、加えられたものは運動不足か否かというものだという。
先人たちからすれば、運動不足なんて考えられなかったと思うけれど、今はそのような時代だということである。
運動不足によって、しゃがむことができない子や、しゃがむことができないから和式トイレを使うことができない子、上手に走ることができない子、鉄棒にぶら下がっただけで脱臼する子、マットや跳び箱を使った運動で自分の体重を支えられずに骨折する子などが増えているというから、確かに座高測定をしている場合ではない。
座高測定の背景を知って驚いたけれど、意味がないと分かりつつも、最近まで測定し続けられていたことに対して、既にあるものを無くすことは、思うよりもずっと難しいということだろうか。
そのようなことを思ったりもしながらキッチンで過ごす穏やかな午後である。
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