幸せのレシピ集

cawaiiとみんなでつくる幸せのレシピ集。皆様の毎日に幸せや歓びや感動が溢れますように。

ファイトケミカルで小まめにバランスをとる。

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非常時用に備蓄してあるカップ麺が、そろそろ賞味期限を迎えようとしていた。

普段はほとんど口にしないカップ麺なのだけれど、非常時用として置いていたものを日常の中で食べられることは、本当にありがたい。

カップ麺と言えば、健康に良くないという見方もあるけれど、どのようなものにだって長所と短所があるのだから、最後はそれを使う人(食べる人)次第だと思う。

カップ麺は、野菜とタンパク質が不足するような構成のものであることが多い為、我が家の備蓄食料品の中には、お湯やスープに入れるだけで戻る乾燥野菜ミックスと、お魚やお肉の缶詰なども少しだけストックしてある。

よくダイエット中だからとサラダを主食にするようなダイエットを行う方がいらっしゃるけれど、タンパク質は私たちの体にとってとても大切な栄養素。

ここをゴッソリカットしてしまうと、健康のバランスを崩してしまうし、太りやすく痩せにくい体質になると言われている。

少しだけ栄養学の世界をのぞいてみると誰でも気が付くと思うのだけれど、必要量のタンパク質を摂るということは、思う以上に大変。

要は、お肉を食べると太るのではなく、そこに含まれている脂肪分が影響しているので、少しだけ調理方法や味付け、選ぶ部位を見直すだけで、お腹を満足させながら健康的に痩せられるのである。

見聞きする機会が多い炭水化物ダイエットも然り。

炭水化物を抜くときも炭水化物というだけで、あれもこれもと抜いてしまうと、必要な栄養素をゴッソリカットしているだけという状態になることも。

どの炭水化物を抜いて、どの炭水化物を口にするか。

口にする際の量はどのくらいが適量なのか。

そのような視点で選び取っていくと、楽しく暮らすことと健やかに暮らすことが、いい塩梅で成り立つように思う。

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そうは言っても、それを続けるということが一番難しく、どのようなことでも長く続けるということは至難の業で、

たまにはカップ麺で食事を簡単に済ませて、休みたい日もあるし、加工品を使って調理時間を短縮しなくては、色々と滞ることもある。

しかし、中には、体に害を及ぼすことがない量しか入っていないけれど、様々な理由から発がん性物質が含まれている食品も多数存在している。

消費者から見れば「そんなもの入れないでよ、売らないでよ」と思ってしまうけれど、ここにも一長一短があって、そのような物質を含んでいるから悪い食品というわけではないところが、何とも歯痒いところである。

そうなると、「じゃぁ、どうしましょうか」となるのだけれど、私はファイトケミカルを含んだ食材を一緒に摂るようにしている。

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ファイトケミカル(フィトケミカルと言われることも)とは、植物が、紫外線や外敵といった有害なものから自分の身を守るために作り出した化学物質のこと。

「化学物質」というと難しい印象を持ってしまうけれど、これは、野菜特有の香りや、辛味成分、粘り気、色といった形で表れているので何も難しいことはない。

ちなみに、ファイトケミカルと呼ばれている栄養素と、それを含む食材は、下の画像にあるような食材である。

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ファイトケミカルは、ビタミンやミネラルのように、摂取しなければ体内バランスが崩れてしまうといった類の栄養素ではないのだけれど、

がん予防、錆びない体作り、免疫力アップ、デトックスなどの効果が期待でき、美容と健康を保ちながら様々な病を予防するには摂取しておいて損はない栄養素だと言われている。

だから、加工品を口にする機会が多い方や、食事の用意に時間を多く割けないときには特に、フェイトケミカルを一緒に摂るようにしておくと、安心できるように思う。

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ファイトケミカルを含む食材は、熱に強いものと弱いものがあるので(※この辺りのお話は機会がありましたら改めて)、あまり深く考えたくない場合はスープに使って、全て丸ごといただいてしまうのも「テ」。

他にも、トマトに含まれているファイトケミカルはフレッシュトマトよりも、凝縮されたケチャップの方が多いので、フライドポテトをついつい食べてしまうという方は、ケチャップを添えるのもアリ。

もちろん、全てはバランスなのだけれど、ちょっとした積み重ねが1年後、5年後に大きなギフトを運んできてくれるように思います。

ファイトケミカル、何かしらのヒントやキッカケにしていただけましたら幸いです。

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内助の功か、取締り官か。

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そのうち開くであろう時季外れの新年会用にと、日本酒を探し求めに出かけた。

お目当ての品は、この時季に味わうことができる「新酒」や「しぼりたて」と呼ばれるもの。

この表現に正式な決まりはないと言われているので、多種多様な視点による「新酒」や「しぼりたて」があるのだけれど、この日は、秋の実りとして収穫された新米で造られた初めてのお酒という意味でのそれを求めに行った。

生憎、多くを語ることができるような知識を持ち合わせていないため、選ぶ基準は、ラベルやポップに記されている、ざっくりとした味の傾向を参考に最後はインスピレーションで決めることが殆ど。

それでも少しずつ、自分や自分の家族や友人、知人たちがどのような味を好んでいるのかを理解できるようになるのは、楽しいものである。

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いつだったか、仕事をご一緒させていただいた方々との宴席で、日本酒をいただく機会があった。

その頃の私は、日本酒を飲むことはできたけれど、自分にとって飲みやすいか否かくらいの事しか分からず、それがどのようにして造られたものなのかを想像する余裕もなく、口にしていたように思う。

誰もが通る、そのようなお年頃だったのだから仕方がないとも言えるのだけれど、それなりに大人になり、ふと同じ銘柄に出会うこともある。

そして、そのとき初めて、貴重なお酒を経験させていただいていたことに気が付くやら、もっと大切に味わえばよかったと悔いるやら、頭の中でグルグルと当時の記憶が蘇り、ありがたい時間だったと着地するのである。

いくつかの日本酒を手に取りながら当時のことを頭の片隅で思い出していたのだけれど、宴席でいただいていた日本酒がとても口当たりがよく、ついついグラスを口元に運ぶ回数が増えていたときのことである。

その方が「和らぎ水(やわらぎみず)」を頼んでくださった。

「和らぎ水(やわらぎみず)」とは飲んだお酒が体にダメージを与えないよう、アルコールを和らげるために飲む水や他の飲み物のこと。

飲みやすい日本酒を口にするときのおともにと、簡単に言えばミネラルウォーターのことだったのだけれど、配慮してくださったのである。

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私は、その聞きなれない言葉から、別のお酒を注文したのだろうかと推測し「やわらぎみず」というものことを尋ねたように思う。

するとその方は、日本酒のときには「和らぎ水(やわらぎみず)」、洋酒のときには「チェイサー」と言い分けるのも粋でしょ、とおっしゃった。

「チェイサー」も同じ目的で口にするもののことなのだけれど、こちらは、先に飲んでいるものを追いかけるというイメージから、チェイサーと呼ばれている。

「和らぎ水(やわらぎみず)」と「チェイサー」、何ともお国柄現れる呼び名である。

前者は、お酒や体に優しく寄り添いつつ、深酔いや二日酔いを防ぐために裏でテキパキ働く内助の功といった存在で、後者はアルコールを追う取締り官のようである。

この時から、私の頭の中では「和らぎ水(やわらぎみず)」という表現が定着してはいるのだけれど、咄嗟に口から出る言葉は、言い慣れた「チェイサー」で。

いつになったら自然に「和らぎ水(やわらぎみず)」と発することができるようになるのだろうか、と思う。

粋な大人への道は思うより遠く、やはり日々精進のようである。

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チョコレートとラクダと小さな楽しみと。

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あっという間に、バレンタインチョコレートの話題が飛び交う時季である。

話題のメインは誰に贈るかではなく、どこのチョコレートが美味しいか、どのショコラティエのチョコレートが気になるかといったところ。

バレンタインの在り方も、この時季のチョコレートの在り方も随分と変わったけれど、浮世の義理から行き交うチョコレートであっても、そこに少しでも、選ぶ楽しみや贈る楽しみ、いただく楽しみや口にする楽しみが含まれているといいのだけれど、と思う。

この時季は、異国の珍しいチョコレートを手にすることができる機会でもある。

時折、そのようなチョコレートに好奇心から手を伸ばすことがあるのだけれど、何年も印象に残り続けるチョコレートは、そう多くはない。

私にとって印象に残り続けているチョコレートは、随分と前に口にした、ラクダのミルクを使ったドバイの「アルナマス」のもの。

ラクダのミルクを使用しているため、口にし慣れているチョコレートと比較するとクセとも取れるような個性はあるのだけれど、味わい深い濃さと甘さの奥に感じる、ちょっとした塩気が心地よく、エキゾチックでクセになるチョコレートだったと記憶している。

味だけなく、ラクダのミルクにはビタミンやミネラルが豊富で牛乳の半分ほどの脂肪分ということで、美容と健康にも良いという話があったり、

甘さが異なるシンプルなチョコレート以外にも、ナッツやドライフルーツ、スパイスなどをアクセントに使ったものもあったりと、新しい経験にドキドキしたようにも思う。

アルナマスのチョコレートをもう一度、口にしてみたいと思いつつも、ご縁はあれっきり無いままなのだけれど、今は偶然の巡り合わせを楽しみにしているところである。

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そう言えば、イソップ物語だったと思うのだけれど、牛の角を眺めていたラクダが、神様のところへ出向き、自分にも牛のような角を付けて欲しいと願い出た童話があった。

神様はラクダの願いを聞いて「君には強い力と大きな体があるというのに、まだ何か欲しいの言うのか?」と返し、ラクダが持っていた長い耳の一部分を切り落として短い耳にしたのだとか。

「自分は持っていないと思っていても既に何かを持っているということに気付いて」「自分の良いところや自分が置かれている幸せな状況をもう一度見てみたら」「欲張りすぎると、既に持っているものまで無くしてしまうよ」といったことを伝えている話でもある。

ある程度のものは、何でも簡単に手に入る世の中だから、ほんの少しアグレッシブに動きさえすれば手に入れることができるとは思うのだけれど、「いつの日か」と、偶然を楽しみに待っているものを胸の内にいくつか忍ばせておくのも悪くない。

そのようなことを思いながらチョコレートカタログを捲るお昼どきである。

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当たり前でワンダフル。

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パソコンのキーボードを叩く手を止め、体を仰け反らせて天井を見上げた。

知っているはずの天井なのだけれど、こんな柄の壁紙だったかなと度々思う。

自分で選んだものだったならば何となく記憶に残っているのかもしれないけれど、そうではない場合、なんといい加減な記憶だろうか。そう思うのも毎度のことである。

そのようなことを思い出しついでに浮かんだのは、先日乗った電車内の光景だった。

各駅停車に揺られることを選んで車中へ入ると乗客は疎らで、横並びの座席は普段よりも広く、大きく見えた。

床には、外から差し込む陽射しによって窓枠や広告の影が伸びており、穏やかな時間が流れていた。

ホームを挟んで隣に停車した特急電車に乗っていたら、このような穏やかな光景と時間はなかっただろう。

私は、誰も座っていない横一列の場所を選び、その真ん中に腰を下ろした。

特急電車に乗ることができるにも関わらず普通電車を選んで乗ったことを吐露すれば、時間の無駄遣いだと言われることもあるのだけれど、

私にとってこういった時間は、とても贅沢な時間の使い方のひとつであり、心地よい時間でもあるため、こうして時折、贅沢な時間をうふふふっ♪と楽しむのである。

この日、私の斜め前の座席には幼い少年と父親の親子連れが座っていた。

少年は、父親に何かを尋ねられる度に「うーん」「えーっと」と可愛らしい声を発しながら天井を見上げるのである。

その様子を視界の端で微笑ましく感じながら電車に揺られた。

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人は、考え事をするときに無意識に上を向く傾向がある。

これは、そのような仕草をした方が、「いかにも考え事をしているように見える」という演出的な表現を、どこかしらで目にしたことがきっかけになっていたり、

子どもの頃に周りの大人たちがそうしている姿を見て真似ているうちに、考え事をするときには上を向くものだという思い込みが生まれ実践しているといった見解があるという。

他にも、私たちの脳が、考え事に集中できるように、視界に入る情報を無意識に減らそうとして天井や空など上を見上げているという見解をもつ専門家もいるのだそう。

上は向かないけれど目を閉じて視界を暗くした状態で考え事をするのも、これに近い動作なのかもしれない。

明確な理由は未だ見つかっていなかったと記憶しているのだけれど、どちらにしても、随分と幼い頃にこの動作が人に備わるようなのである。

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現にその日、私が目にした少年は3歳か4歳くらいに見えたのだけれど、既に自分なりの答えを出すまでの間、車内の天井を見上げていた。

それが、模倣なのか本能によるものなのかは分からないけれど、人って自分が思う以上に謎だらけで面白い。

再び少年の方へ視線を向けると、今度はしっかりと腕を組んだあと、片方の手を顎に当て、やけに大人びた仕草で天井を見上げていた。

あれはきっと、周りにそのような仕草をする大人がいるに違いない。

今の自分は、これまでに出会った人や目にしたもの、触れたもの、感じたものでできている。

それは、当たり前のことでもあるけれど、ワンダフルなことでもある。

そのようなことを思った車中である。

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直筆の文字から紐解くうっかり度。

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突然ではありますけれど、本日は、普段とは異なるスタイルでお話を始めさせていただきます。

もし、お近くに紙とペンがありましたら『東京都の田中さん』と書き記した後、お付き合いいただければと思います。

書いていただいた文字を、後ほど使わせていただきます。

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ここのところ、小さな失敗談を耳にする機会が多かった。

それらは全て、本人の能力による失敗ではなく、うっかりしていたが故の失敗や、そそっかしい性格がもとに起きた勘違いによる間違いなどであった。

人に迷惑をかけるようなことでも大ごとでもなく、聞けば彼らを微笑ましく思うようなことばかりだったのだけれど、私の目には彼らが少しばかり凹んでいるように映った。

その後、私自身も幾つかの小さな失敗をしてしまい、年明け早々、軽く凹んだりもしたのだけれど、過ぎたことはどうしようもないのだから次こそは!だとか、

年末年始特有の、良い意味での緊張感が緩んだのかもしれないだとか、年明け早々に今年の毒出しをしたに違いないなどと都合の良いことから、もっともらしいことまでをひと通り思い浮かべつ気持ちを切り替えたところである。

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私の場合は明らかに自分の不注意だったのだけれど、その時のことを思い返しながら、今年いただいた年賀状に目を通していたときのこと。

近況が丁寧に綴られている1枚を読みながら、遠い日に「『東京都の田中さん』と書いてみてと」紙とペンを手渡されたときのことを思い出したのである。

年賀状の差し出し人と紙とペンを差し出した人物は同一人物で、当時、仕事をご一緒させていただいていた方である。

急かされるようにして『東京都の田中さん』と紙に書いて渡したところ、簡易性格診断のようなものが始まったのである。

人は誰でも大なり小なり失敗を犯してしまうものだけれど、大きな失敗を犯してしまった背景を事細かにみていくと、小さな小さな、失敗だと判断し難いようなレベルでの失敗なども含め、数百ほどの失敗を犯していると言われているそうだ。

そして、そのような小さなミス、うっかりミス、ケアレスミスとも言いますけれど、それをやってしまいやすい傾向にあるか否か、筆跡から傾向を知ることができるとのこと。

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ここで、冒頭で『東京都の田中さん』と書いていただいた紙を眺めていただきたいのですが、注目するのは、線と線の繋ぎ目。

特に「日」「口」「田」といった形が組み込まれている部分です。

ここがくっつかずに隙間ができている場所が多ければ多いほど、うっかりミスをし易いタイプなのだそう。

筆跡のお話は過去にもさせていただいておりまして、その都度お伝えしていることなのですけれど、プロの筆跡鑑定士の方は、もっと多くの細やかな視点を組み合わせて判断しています。

ですから、このような簡単なチェック結果に一喜一憂する必要はないのですが、文字は、自分の無意識が「書く」という行動を通して表れたものでもありますので、

なりたい自分の要素を自分の文字へ取り入れる事で、自分の意識を変えていくことができる、とも言われています。

今回の自分の文字を見て「あれ?隙間が多いな」と感じられた方は、念のための確認を行うようにしてみてはいかがでしょう。

筆跡は簡単に変わるものではありませんけれど、疲れていたり、考えることが山積みになっているときなどの心の状態は文字に表れますので、

時折、自分の文字を眺めてみるのも、自分の今を知るキッカケになるのではないでしょうか。

簡単な筆跡診断を楽しみつつ、何かしらのヒントにしていただけましたら幸いです。

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背伸びせずに楽しめるようになったとき、全てが宝に変わってた。

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この時季の、ささやかな楽しみのひとつは金柑だ。

存在感を放ち合うフルーツが山積みにされている一角の、更に端の辺りで透明カップに入れられた状態で置かれていることが多いように思う。

駄菓子屋さんに売っていそうな、粒々とした砂糖がまぶしてある大玉キャンディーくらいの大きさの金柑が、カップの中でゴロゴロとしている様子にテンションがあがるのは、子どものころから好きなフルーツのひとつ、だからだろう。

今思えば、子どもが好むものとしては珍しいもののように思うけれど、薄れかけの記憶を辿ると、私が口にしていた金柑のほとんどは、甘露煮ではなくフレッシュな金柑だった。

それを、ひと口蜜柑のようなイメージで口にしていたから好んで口にしていたのではないだろうかと推測してみたりする。

金柑はそのままが美味しいという理由からなのか、単純に甘露煮にするのが面倒だったからなのか。

我が家の場合は、99%の確率で後者だったように思うのだけれど、きれいに洗った金柑が深めのフルーツボウルに入れられてテーブルにドンッと置いてあった。

これを、リビングを通る度に一個、また一個と口の中に放り込むのである。

立ったまま口の中に放りこむときの、お行儀が悪いことをしているかもという何とも言えぬ感覚と、口の中でパチンッと弾ける金柑の食感の楽しさ、そしてあの甘酸っぱさが混ざり合い、子ども心に響いていたのだろうと思う。

時折、皮が苦いものに出くわす瞬間もあったけれど、しっかりとした甘みを含んだ皮をした金柑があるということを、母か祖母に教えられていたこともあり、苦いものを口にしても金柑を嫌いになることはなく、次こそは甘い金柑を!と宝探しをするように味わっていた。

あの頃の記憶が曖昧になるほどに時は過ぎたけれど、私は今も金柑が好きである。

あの頃と少し変わったことがあるとするならば、金柑特有のほのかな苦みも大人の味として背伸びすることなく楽しめるようになったこと。

できるだけ甘酸っぱい金柑を求め宝探しをしていたはずなのだけれど、いつの間にか全てが宝になっていたのだ。

しかし、三つ子の魂百までとはよく言ったもので、金柑の甘露煮も美味しいのだけれど、やはり、フレッシュな金柑をおやつ代わりに口の中に放り込むスタイルが私のスタイルのようだ。

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この金柑、柑橘類ということもあり、ビタミンCが豊富だということは何となく想像できるかと思うのだけれど、甘露煮にした金柑は咳止めに良いと言われている。

咳止めとして口にする際には、そのまま食べても良いのだけれど、金柑の甘露煮にお湯を注いだものを飲みながら金柑を食べると体も芯から温まり、効き目も増すように思う。

あ、そうそう。金柑の甘露煮や金柑ジャムを作るときには、金属製の調理器具を使わない方が良いという料理家の方が多いのだけれど、これは金柑の酸と金属が反応し、味に影響が出るからなのだとか。

そう知りつつも金属製の小鍋で煮た経験しかない私は、今年は土鍋で煮てみるか?と気まぐれで思ったけれど、きっと、我が家にやってくる金柑は寒露煮になる前にお腹の中へ入ってしまうに違いない。

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金柑の甘露煮は好き嫌いが分かれる一品ではありますけれど、この時季に必要な栄養も入っております。

召し上がる機会がありました折にはビタミンCの補給や風邪予防に、大人のほろ苦さと一緒に金柑の甘酸っぱさをご堪能あれ。

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寒い朝の悪魔の囁きには拍手を。

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寒い……寒い……と呟きながらベッドの中で足をバタつかせてみた。

可能な限り自前の体温を上げて心地良く眠りにつこう、という至極アナログな算段である。

しかし、自分の体温が思うように上がらず、この夜はカシミヤの大判ストールを掛け布団の上にふわりと重ねる策に出た。

すぐに心地良い温かさが生まれ、体がそれに包まれていく変化を感じていたはずなのだけれど、不意に起きる時間を告げるアラームに意識を揺さぶられ、えっ、まだちゃんと寝ていないと思った。

そう思えるほどにグッスリと眠れたということなのだけれど、楽しい時間や心地よい時間は過ぎ去るスピードも数倍速。

寝起きの頭では腑に落ちない気持ちを上手く処理することができず、アラームを止めながら、もう一度布団の奥へ潜り込んだ。

冬のまどろみタイムの幸福感は夏のそれと比べると数倍増しである。

もう一度、このまま眠ってしまってもいいのではないか、ありがちな悪魔の囁きと闘いながら、タイムリミットぎりぎりのところでグイッと体を起こした。

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確か、寝具売場で耳にした話だったと記憶しているのだけれど。

睡魔と闘いつつも、どうしても起きなくてはときがある。

このようなときには、お布団の中から手を出して拍手をすればよいのだとか。

この時、やる気のなさが溢れ出ているような拍手では意味がなく、音がパンッと鳴り響くような拍手をすることがポイント。

拍手のどこに睡魔を打ち破るカギがあるというのだろう。

当然そう思ってしまったのだけれど、これは第二の脳と呼ばれる手のひらに刺激を与えることで脳を目覚めさせることができるということだという。

私が時折お世話になっている、お洋服の仕立て屋にいらっしゃる方々は、人生の大先輩と呼べるほどの年齢の方々ばかりである。

以前、その方々との雑談の中で皆さんの年齢を耳にしたのだけれど、リアルに仰け反って驚くほど見た目年齢とギャップがあった。

その時に、皆さんが口を揃えて仰っていたのは、毎日、手や指を動かしているから、脳が私は若いって勘違いしていると思うと。

そして、その勘違いが良い方に作用しているから心も体も元気だと。

よく、脳は良くも悪くもいい加減だから、考え方や意識の向け方ひとつで日常を変えることができるだとか、手や指先を使っていると脳が活性化し老化防止になるだとか言われているけれど、手は、やはりそれくらい脳と密に繋がっているということのようだ。

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話が少し逸れてしまったけれど、このような話も含めて見るに、朝の目覚めをスムースにする方法のひとつに、拍手という「テ」があってもおかしくはないと思った。

しかし、私は未だにこの拍手を実践したことがない。

理由は明白。

寝起きの頭でこの情報を引っ張りだすことは思いの外、難しいのである。

目を閉じたままアラームを切ることができるのと同じくらい、オートマティックに柏手を打つことができるようになれば、あの悪魔の囁きと闘う必要もなくなるのかもしれない。

そのようなことを思いつつ、シナモンティーを淹れたある日の朝である。

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相手への思いがもれる待ち姿。

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待ち合わせの場所に、約束の時間よりも早く着いたときのことである。

人が、ひっきりなしに行き交う様子を眺めていると、私同様に待ち合わせをしている人たちが目に留まった。

性別も年齢層もバラバラだったけれど、それぞれの前に一人、また一人、と待ち合わせ相手が現れ、その場を共に離れていった。

すると今度は、別の方がその場所に立ち、誰かを待ち、現れた待ち合わせ相手と共にその場を離れていくのである。

ありふれた光景だけれども、何となく目が離せなくなり、私は、私の待ち合わせ相手が来るまでその光景を眺めていた。

いつだったか、待ち人の到着を、心理学を専門に扱っている方と一緒に待つ機会があった。

記憶に残らないような雑談を幾つか交わしたのだけれど、その時の会話の中には、「人を待っているときの様子には心理状態が現れている」という話があった。

そしてその方は、辺りに居る見ず知らずの方々をこっそりと例に挙げ、心理の現れ方を解説してくださったのである。

今回は、そのようなお話を少し、と思っております。

ご興味ありましたら、温かいお飲み物片手に、お付き合いくださいませ。

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人を待っているときの様子に表れる心理状態は、男性と女性で違いがあるのだそう。

例えば、女性と待ち合わせをしている男性が、約束の場所に先に着いた場合。

男性が、これからやってくる女性に対して好意を抱いているときには、そろそろ到着するだろうか、どこから現れるだろうか等と無意識にワクワクしているため、辺りを見渡していることが多く、遠目から見ている人には落ち着きがない姿として映るのだそう。

一方、落ち着きを放った様子でジッと静かに待っている場合は、この時点では待ち合わせをしている女性に対して特別な感情や興味がないか、

既に、その女性とは心が通い合っているという自信から、落ち着きある状態を放っている。という二つの状態が考えられるという。

そして、女性が待ち合わせ場所に先に着いた場合はどうなるのか。

男性とは真逆で、待っている側の女性が、相手の男性に好意を抱いている場合は、姿勢を崩すことなく、落ち着きを放った様子でジッと静かに待つ傾向にあるのだとか。

これは、とても女性らしい心理の現れで、いつ、どのような角度から見られても素敵な自分でいられるように、神経を研ぎ澄ませた状態で待っているという。

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簡単に言うならば、男性は、相手への好意が落ち着きのなさという形で表れ、女性は、相手への好意が落ち着きとして表れるそうだ。

もちろん、例外もあり、100%そうであると言い切ることができるほどの判断基準ではないけれど、人は粗方、このような行動をとっているようだ。

ご自身の行動を振り返ってみるもよし、遠目から待ち合わせをしている方の元にやってくる待ち合わせの相手を予測するもよし。

機会がありました折には、待ち合わせ時間までの手持ち無沙汰の解消も兼ねて、世の中をちらり観察していただけましたら幸いです。

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おててふっくら、おうちピカピカ。

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季節を問わず使用しているもののひとつ、ハンドクリームを新調した。

リーズナブルなものからスペシャルなものまで幅広い価格帯のものがあり、香りやテクスチャー、効果、効能と呼ばれるものも様々。

一番の使用目的は、手肌の乾燥を防ぐことなのだけれど、私にとってのハンドクリームは、その時々の気分で小さな冒険を楽しむことができる気分転換アイテムでもある。

ただ、私がそのようなことを思っているからなのか、「これぞ、マイ・ベスト・ハンドクリーム!」と呼べるほどのお品ものに未だ出会えていないことが小さな気がかりだ。

きっと、どれに対しても、ある一定レベル以上の効果を感じることができているということなのだろうけれど、これがあれば大丈夫という安心感に憧れを抱いていたりする。

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ネイルサロンでハンドエステやマッサージ、パックなどを利用することもあるけれど、正直なところ、その効果は長くはもたないように思う。

結局のところ、1回のスペシャルケアよりも“ながらケア”であっても日々積み重ねることの方が効果的だということなのだろう。

お肌も体も正直である。

だから私は、いつの間にか、手肌も顔肌と同じように扱うようになっていた。

少々面倒に感じることもあるのだけれど、気持ちと時間の双方に余裕があるときには、ハンドクリームを塗る前の手肌に化粧水を乗せ、その上からハンドクリームを使用するというスタイルだ。

既に何度かクリームを塗っているような時には、できるだけ刺激が少ない石鹸で手を洗い、化粧水をたっぷりと含ませ、美容液をプラスすることもある。

この上に重ねるハンドクリームは、リーズナブルなもので十分効果を発揮してくれるため、あまり拘りはなく、その時々の気分で選んだものを使用している。

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これを数日続けると肌が息を吹き返すのだけれど、年に数回ほど、スペシャルケアを施すことがある。

それは、化粧水→美容液→ハンドクリームと流れる中で、化粧水とハンドクリームを多めに塗り、使い捨ての手袋を装着した状態で家のお掃除をする、というもの。

私は料理に使用するニトリル手袋を常備しているので、これを2枚重ねて、張り切って家のお掃除をするのである。

潤いと油分が行き届いた手を動かすことで血流も良くなり、肌本来の機能が復活するような感覚を感じることができるのだ。

お掃除は、お風呂でもキッチンでもどこでも良いのだけれど20分以上かけられると良いように思う。

お掃除を終えた後は、手袋をとり、水か水に近いぬるま湯のみでハンドクリームのベタベタを取り除いて、優しくタオルドライ。

ここでもう一度化粧水+薄くハンドクリームを塗っても良いけれど、ここは、手肌の乾燥具合を確かめてから臨機応変に。

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ズボラケア以外の何ものでもないのだけれど、こうすると手肌がエステ後のように艶プルになるのである。

自分で発見したような口ぶりになってしまったけれど、私がこのズボラケアを始めたきっかけは、当時お世話になっていた皮膚科医のアドバイスによるものである。

コツは、肌がとても乾燥している場合は水分をたっぷりと行き渡らせること。

最近、手肌が元気ないと感じている方は、ご自宅にあるものを使って、「おててふっくら、おうちピカピカ」をお試しあれ。

健やかさに繋がる何かしらの閃きやヒントになりますように☆彡

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“何もない”は“何でもある”。

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オーガニック食材を扱っているお店を見つけ、足を踏み入れた。

初めて通る場所ではなかったのだけれど、以前、この場所に何があったのか思い出せぬまま店内を見回った。

私には、何から何までオーガニックで統一するというようなストイックさは無いけれど、自分にとって本当に必要なものだけを選び取る過程の中には、楽しさだけでなく、良いも悪くも含めた様々な驚きがあるものだから、つい、覘いてしまう場所のひとつだ。

以前であれば、オーガニック食材や食品を探すだけでも一苦労という印象があったけれど、最近は種類が豊富な上に、身近な場所でそれらを手に入れることができるようになったように思う。

これは、健康志向が世の中に定着したからだとも言えるけれど、私は密かに、人の体が不要な添加物に飽きはじめつつあるのではないだろうかと思っていたりもする。

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ここ数年でアウトドアを趣味にする人も増えているときく。

大勢でわいわいキャンプを楽しむ以外にも、ソロキャン(ソロキャンプ、おひとり様キャンプ)も静かに熱く、書店内を見回るだけでも、この手のハウツー本を多数見かけるようになった。

過ごし方や楽しみ方は十人十色だけれど、その背景には人工物に囲まれて過ごし続けることに無意識に違和感を覚え、自然と共に過ごす時間に心地よさを感じるようになっているようにも見える。

とは言え、人工物に囲まれる便利な生活を完全に手放すことは容易ではなく、双方のいいとこ取りをしている方が大半といったところではだろうか。

私の身近にも、都会暮らしと長年積み重ねてきたキャリアを潔く手放し、自然が豊かな場所で、新しい仕事と共に新生活を始めた友人がいる。

どこでも楽しく過ごしていけるタイプの友人ということもあり、慣れないが故の大変さも楽しんでしまうのだろうと大きな心配はせず、便りを待つことした。

新生活から3か月ほど経った頃だっただろうか。

送られてきた写真の中の友人は、憑き物が落ちたような顔をしていた。

「憑き物が落ちたような顔」という表現は、これまでにも使う機会があったけれど、このような時に使うべき言葉だと感じるほどの晴れやかな表情をした知人を見て、人は自然のそばに身を置くと、こんなにもイキイキとするものなのかと驚かされた写真だった。

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そのようなことを考えながら、排気ガスが混じったような、薄っすらとグレーがかった青空を眺めながら帰宅したものだから、この日は体が喜ぶことをしたくなり、お野菜たっぷりの和食メニューを普段よりも数割増し丁寧に作ることにした。

そして、気分だけは大自然の中である。

何もない状況というものは、本当は、何でもある状況なのだろうなと思った日。

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