もうすぐ父の日ですね。
この時季になると思い出すことがあるのです。
英国暮らしをしていた頃、近所に雰囲気の良い花屋があったのです。
今どきのスタイリッシュなおしゃれな雰囲気というよりは、
シャーロックホームズの世界に登場してもおかしくないような、
フラワーショップと呼ぶよりは花屋と呼んだ方がしっくりくるようなお店でした。
もちろん、扱っているお花は立派で新鮮なお花ばかりでしたし、
店主の作る花束やアレンジメントは確かなものでした。
プロフェッショナルに対して、このような物言いは失礼だけれども、
依頼したときの、そのイメージを掬い上げることの上手いことといったら。
今でも時々、彼に花束を作ってもらいたい。そう思うことがあるほどです。
ある時、部屋に飾るお花が欲しくて彼のお店へ行った時のこと。
きっと、6月だったのでしょうね。
日本にも父の日はあるのか?と尋ねられたのです。
ある、と答えた私に日本ではどのようなことをするのだ?花は贈るのか?などと
矢継ぎ早に質問されたのです。
あまりにも早すぎたものだから私の耳が付いて行かず、
ゆっくりと、ひとつずつ質問して欲しい、と言ったことを覚えています。
その時に、日本では黄色いバラを贈ることが多いのではないだろうかと言うと、
「父の日は、赤いバラか白いバラだろ。何で黄色なんだ?」と返され、
答えに困った私は、「私からしてみれば何で赤や白なのか分からない、どうして?」と
質問返しで応戦する運びとなりました。
その後、日を改めてお互いの国の父の日について教え合うことになり、
私の雑学がひとつ増えることになりました。
程よいタイミングで当時のことを思い出しましたので、
今回は、わたくしの頭の片隅でホコリをかぶっていた
父の日の始まりのストーリーの再確認にお付き合いいただければ幸いです。
父の日は、アメリカ発祥のものなのですが、
正式に国民の日となったのは1972年ということですので、割と最近のようです。
アメリカの南北戦争時代、ワシントン州にソノラという名の女性がおりました。
彼女の父は戦争へ招集されてしまったため、
母はソノラを含めた6人子どもたちを1人で育てることとなりました。
しかし、働きづめだった母は過労で亡くなってしまいます。
戦争から戻った父はソノラたち6人の子ども1人で育て上げ、亡くなったのだそう。
しばらくして母の日ができ、母の日がアメリカに広がり始めた頃、
ソノラは愛する父のことを想い、父に感謝する日も必要だと主張します。
これが少しずつアメリカ全土へと広がり、
少々時間がかかりはしたものの数名の大統領の声明を経て、
1972年、ソノラが父の日を主張した日が6月19日を
「父の日」、国民の祝日として定められたようです。
この時、ソノラが父のお墓にバラをお供えしたことから、
健在する父親には赤いバラを、
他界している父親には白いバラを贈る風習が始まっています。
どうして日本では黄色いバラを贈ることが多いのか。
父の日が日本に入ってきたのは戦後だったようですが、
今のようなイベントして確立したのは1980年に入ってからとのこと。
当時、幸せの象徴となっていた黄色が
父の日のイメージカラーとして使われたことがきっかけとなって
日本では黄色いバラを贈るようになったようですね。
これは、私の勝手な想像なのですが、
当時の日本人のお父様方にとっては、
真っ赤なバラよりも黄色いバラの方が受け取りやすいイメージがあったのではないかしら、
とも思っております。
気持ちが届くのであれば贈り物の有無は関係ないと思いますが、
皆さんはバラ、贈りますか?
私はありったけの“ありがとう”の気持ちと共に、白いバラを贈ろうかしら、と思っております。
※2017年の父の日は6月18日(日)です。