無性にアジフライを食べたくなり、「今日の夕飯はアジフライにしよう」と早々と心に決めていた。
単純なのだけれど、今夜は、今一番食べたいアジフライを食べられる、
そう思うだけで昼間の諸々を普段よりも数割増しで頑張れる自分がいた。
自分にとっての小さなご褒美は、いくつあっても良いように思う。
ご褒美というと大層なモノという印象があるけれど、
その在り方や感じ方は、とても自由で幅広く、自分が何をどうご褒美と感じることができるか。
自分自身の今を知ることにも繋がっているように思う。
自分以外の誰かのご褒美を自分がご褒美と感じるとは限らないのだ。
もちろん、逆も然り。
ご褒美探しが上手くなると、何気ない日々の暮らしの中に新しい豊かさが加わり、
退屈な日という言葉が影をひそめるように思う。
その日の私にとってのご褒美は夕飯のアジフライ、だったわけなのだけれども、
久しぶりに口にした肉厚のアジフライは、サックリふわっとした食感も口に心地よく、
思わず目を閉じて堪能していた。
食後のキッチンのお片付けは、少々面倒に思うこともあるのだけど、
満足した後というのは不思議と手際の良さも普段の数割増しだ。
凝固剤によって固まった使用済みの油を処理しながら思い出したことがある。
日本では油をシンクの排水溝に流すことはないけれど、
私が一時暮らしていたイギリスでは油をそのままシンクの排水溝に流していたのだ。
排水溝に油などを流せば環境がどうなるか、
元の環境に戻すまでにどれ程の時間を要するか、日本人はしっかりと教わる機会がある。
私は、子どもの頃にコップ1杯の牛乳を排水溝に流した時、
元の環境に戻すまでに必要になる水の量を知り驚いた記憶がある。
だから、排水溝に油を直接捨てようと思ったことはなかったため、
彼らの行動にとても驚いた記憶がある。
油の凝固剤のようなものもなかったため、
私は新聞紙やキッチンペーパーなどを使って処理していたのだけれど、
そのような私の行動を見た人たちからは、
「面倒だし、紙がもったいないじゃない」と言われ
心の中で何度「えーーーーっ、そっち?」と叫んだことか。
いつまで経ってもシンクの排水溝に油を流さない私にイライラしたのだろう。
片付けに時間がかかって要領が悪すぎると言われたこともあったけれど、
その時ばかりは、英語を聞き取れないフリをして自分の様々を保ったりもした。
その後、一人だけ。
環境保護のために古い布切れや新聞紙に油を吸わせて捨てているという方に出会ったけれど、
油はシンクの排水溝に直接流して捨てるという人が大半を占めていた。
これは、生活習慣という名の文化なのかしらと思い、
郷に入っては郷に従えと言う言葉も脳裏を過ったけれど、
私は、シンクの排水溝に油を捨てることができないまま帰国した。
今度、現状を聞いてみようかしら。
そのようなことを思い出しつつアジフライの余韻に浸った夜。