気に入って購入したスマートフォンケースが豪快に破損した。
使い始めて1週間といったところだろうか。
出先での破損は、私のテンションを容赦なく下げた。
ホームで電車を待ちながらバッグの中をチラチラと覗く自分に、
「子どもじゃあるまいし、たかがスマートフォンケースじゃない」と言ってみるのだけれど、
「いやいや、されどケース。気に入って買ったのに」と柊希脳内劇場の幕が上がった。
この日は朝から物が壊れる日だったようで、気付けば3件目。
このような時に限って、ホームに吹きこんでくる風は季節外れに冷たくて、頬に突き刺さるように感じられた。
形あるものは、いつか壊れるのだからと自分を納得させつつ、
バッグの中にある再起不能となったケースを避けるようにして、購入時の状態に戻ったスマートフォンを取り出した。
スマートフォンケースを新調すべく、画面をのぞき込んでいたのだけれど、ふと思う。
あのケースをそんなにも気に入っていたのだろうか、
あのケースを使う時に得られる何かを期待し、欲していたのだろうか、と。
そして、ネットショップに並ぶケースを目で追いながら購入時のことを思い返した。
珍しく、普段は手に取らないような雰囲気のものに付いた「限定」の文字を前に、
たまには、その二文字に乗せられてみるのもいいかと思い、
迷い吹っ切れぬまま勢いで注文していたことを思い出した。
そして、ケースが手元に届き、多少の違和感を抱きつつも気分転換だと思って装着し、
ようやく慣れてきたところでの破損だったのだ。
ケースには申し訳ないけれど、きっと、使いたくてたまらなかったのではない。
感じた違和感をどうにか消化させ、使っていこうという決心が固まったところでの破損を前に、
せっかく気持ちを上げたのに、気持ちを上げた努力が無駄になったような気がしたのだろう。
そりゃぁ、すぐに壊れるよね。そのようなことを思った。
人の感情が動くとき、
向き合っている、そのモノゴトを好きなのか、
そのモノゴトを取り巻く何かを好きなのか、
そのモノゴトをした後に得られる何かを好きなのか、
きっかけやスタート地点に立ち戻ることで気付くことができる何かがあるように思う。
日常の中で生まれる何気ない自分の気持ちですら、
気付かぬうちに、自分自身で思い違いをしてしまうこともあるのだから、
人との関りが一筋縄ではいかないのは当たり前で、
だからこそ、穏やかに関われていることは思っている以上に幸せなことなのだろう。
ケース破損の日から1週間ほど経ち、自分好みのスマートフォンケースが届いた。
今度は、限定の二文字に乗ることなく選んだ、使いたくてたまらないと思ったものだ。
それにしても、新しいものを使い始める瞬間は、いくつになってもテンションが上がるようだ。