先日、カフェでお茶をしていたら、
淡くて優しい藤色のヘアカラーが素敵な女性が、隣のテーブル席に着いた。
女性は首に巻いていたスカーフを外し、
腰をおろしたソファーの空きスペースに置こうとしたのだろう。
しかし、そのスカーフは、女性の手元から滑り落ちたようで、ふわりと私の足元を擽った。
柔らかい手触りのそれを拾い上げてお渡しすると、
「ありがとう」と、それはそれはキラキラとした笑顔でお礼を言われたのだ。
何だろう、あの時に私が感じた気持ちは。
一瞬のことだったけれど、胸の奥がドキリとして、
しばらく私の鼓動は普段よりも力強く脈打っていたように思う。
そして、このような瞬間に出会う時、
言葉には、使い手の心情や生き方が乗るのだと改めて感じるのだ。
そう言えば、私たちが普段から在って当たり前のように使っている「ありがとう」という言葉。
これにも語源がある。
もとは、「有り難い/有難い」と綴られていた言葉で、
「有ることが難しい」、「存在することが難しい」、「有ることが難しいほど稀有なこと」、
「滅多にないこと」、「珍しいこと」などを意味していた。
これが、時代を経る中で仏教の
「生命が存在すること自体が難しくて、珍しいこと」、
「命が生まれることは、それくらい素晴らしいこと」という教えとも合わさり、
何かをしていただいた際に抱く、
「このようなこと事は滅多にあるものではない」という「感謝の気持ち」を表す言葉として
「有り難い」の語尾が変化し、現在の「ありがとう」になったという。
では、「ありがとう」を使う前は感謝の気持ちはどのような言葉で伝えられていたのか。
それは、今では、馴染みの薄い言葉になっているのだけれど、
「かたじけない」が使われていたという。
そのようなことを思い出しながら、
隣のテーブルに居る藤色のヘアカラーが素敵な女性に、
先ほどのキラキラとした笑顔で「かたじけない」と言われていたら、と想像した。
きっと私は、あれほどドキリとはしなかったのではないだろうか、と思う。
あの笑顔には、やはり「ありがとう」の方がしっくりとくる。
時代によって姿形を変える言葉があるけれど、言葉が人を創るのか、人が言葉を創るのか。
どちらにしても言葉は、その時代を生きる人々や時代そのものを
上手く映しだすものなのかもしれない。
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