お土産でいただいた佃煮の封を、キッチンバサミでススーッと切った。
中からは砂糖と醤油が煮詰められた甘辛い、いかにもご飯がすすみそうな香りが広がった。
佃煮に丁度良い器を取り出し、盛り付ける。
夕食まで待ちきれず、キッチンでの摘まみ食い。
思っていたよりも柔らかい甘さで、パッケージの裏側を眺めながら、もうひと摘まみ。
この摘まみ食いがまた、食欲をそそるのだ。
佃煮と言って私が思い出すのは、健康オタクとしても有名な徳川家康だ。
歴史上の人物に付ける冠選びが、少しばかり歪んではいないか?と恩師に笑いながら指摘を受けたことがあるのだけれど、
私の中で徳川家康は、将軍云々の前に健康オタクのオジサマなのだ。
このオジ……いや、徳川家康は、ご飯のおともである佃煮にも一枚噛んでいる。
佃煮の由来は、東京都の佃島(つくだじま)にあると言われているのだけれど、
もともとは、ここに人が住んでいたわけではないという。
この話は、本能寺の変の時にまで遡ります。
本能寺の変が起きた当時、家康さんは大阪辺りを観光中だったのだそう。
そこに「明智光秀が謀反を起こした」という知らせが入り、
急いで三河へ帰る事にしたのだけれど、三河へ帰るための船がなく困っていたところに、
摂津国、今で言うところの大阪の佃村(つくだ村)の漁師たちが船を出してくれたという。
航海中、家康さんが漁師飯などを口にしていたかどうかまでは分からないけれど、
佃村の漁師たちのおかげで、家康さんは無事に三河へ帰り着くことができたのだ。
それからしばらくして、江戸に幕府を開いた家康さん。
この時のこと、彼らのことを忘れてはいなかったのだ。
佃村の人たちを摂津国から江戸に呼び寄せ、将軍家に魚を納める仕事を依頼するのだ。
佃村の人たちが移住した場所は「佃島」という地名になり、彼らはそこで生計を立てることになった。
その暮らしにも慣れてきたのだろう。
彼らは、将軍家に魚を納めるだけでなく、塩茹でした小魚を砂糖と醤油で煮た、佃煮の元祖のようなものを売るようになるのだ
この佃島の人たちが作った、小魚を甘辛く煮た佃煮は江戸で大当たりし、以降、東京の味のひとつになったことから
佃煮と家康がセットで語られるようになっている。
しかし、作ったのは佃村の人たちであり、彼らが江戸に呼び寄せられていなくても、
当時の摂津国で、遅かれ早かれ、このようなものを生み出していたようにも思うのだけれども、
広い視点で見れば、家康が佃村の方々をアシストし、佃煮のきっかけを作ったとも言えるのだろう。
佃煮を前にするときに思い出す名は家康公なのだけれど、
感謝すべきは佃村の方々だと思いながら、その恩恵をこうして私もいただくのである。
佃煮を召し上がる機会がありましたら、家康公だけでなく、佃村の名も一緒に、ちらりと思い出していただけましたら幸いです。
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