ずっと手放せずにいた筆がある。
今は亡き書道の恩師にいただいた筆のうちの1本で、随分と長い間、私の身に起きた様々を手助けしてくれた1本である。
私の癖や、その時々の気分を汲み取ることが上手な筆なのだけれど、
私もこの筆だけは、その日の筆のコンディションを感じ取ることができていたように思っている。
お手入れは続けていたけれど随分と古くなってしまい、もう第一線で活躍できる状態ではなくなり、
今では、文机の引き出しの奥で、お守り代わりのような役目を担うようになっていた。
もう使うことはできないと分かっているにも関わらず、
何度断捨離をしても、これだけは引き出しの中に戻していたのだけれど、
先日、「もういいかな、あの筆」と思えるタイミングがやってきた。
多分、この筆を通して感じてきたことや経験が、全て私の中に溶けきったのだろうと思った。
この筆を眺めなくてもすぐに思い出せるくらいに、活かすことができるくらいに。
この筆には随分と長い間、私の子守りをさせてしまったけれど、ようやく卒業である。
大人になると、節目と言うものが曖昧になってくるため、
久しぶりに自分の身に訪れた“卒業”という瞬間に、軽やかさと背筋が伸びる想いがした。
そのような清々しさを感じながら年末の断捨離を続けていると、
イギリスの小学校へ、異文化交流授業というような名目で書道の特別課外授業をしに行っていたときに使っていた「いろは歌」の資料が出てきた。
小学校側から頂戴したお題は、日本の古い文化を学びながら、日本の文字で自分の名前や、
家族の名前を書けるようになるような授業を。というハードルが高すぎるもので、
最終的に、いろは歌を題材に選んだのではなかっただろうか、と記憶している。
書道で、かな文字を練習する際に使うことが多い「いろは歌」。
『いろはにほへと、ちりぬるを~』という出だしで始まるアレである。
同じ文字を重複させることなく綴られているこの歌には、きちんとした意味がある歌なのだけれど、
よく考えてみれば、そう簡単に作ることができるようなものではなく、貴重な作品であるように思う。
そして、このような作品を作り上げた人が確かに存在したはずなのだけれど、
この作者に関しては諸説あり、正式な作者というものは現時点では存在していない(判明していない)。
しかし、「弘法にも筆の誤り/弘法も筆の誤り」でお馴染みの弘法大師(空海)ではないかと言う説を多く目にするように思う。
私自身は、様々なジャンル・カテゴリーで彼のエピソードに触れる度、
彼ならば、このような言葉遊びを楽しみそうな気がしており、
弘法大師(空海)であって欲しいという気持ちも無きにしも非ずである。
私たちが使っている現代仮名遣いで、いろは歌を記述すると、文字が重複してしまうため、
私たちは「あいうえお」を使ってかな文字を覚えているけれど、
景色が見える「いろは歌」には風情を感じるなと思ったりもして。
まぁ、これは、隣の芝生は青く見えるものということなのだけれど。
そのようなことを思いながら進めた断捨離、今回は思いのほか捗り満足である。
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